space×drama2016の感想を様々な視点で載せていきます 。300文字以上の感想を各劇団が書いていきます。皆様もコメント欄に是非お書き下さい!


by spacedrama
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

<   2011年 07月 ( 25 )   > この月の画像一覧

 西田博至です。
 『アラザル』という雑誌などで音楽や文藝の批評を書いております。

------------
 
 江藤淳という批評家は、その生涯の大半を、妻と犬と「家族三人」で暮らしたひとだが、彼がこんなことを書いている。
 「それにしても、犬を飼う愉しみというのはいったいなんだろう? それは、ことによると、うつむいていつくしむ生きものが身辺にいることの充足感、といったようなものかも知れない」。猫ならしばしば、私たちの視線よりずっと高い場所へ登ることもある。しかし犬ならば、たとえどんな犬種であっても、「とにかく少し顔を伏せて、視線を落して見る、というのが、私ども人間の自然の姿勢である。子供に対しても、私どもはこういう姿勢をとるが、子供はやがて大きくなってしまうのに、犬はいつまでもうつむいて見る場所にいるのである」。
 この芝居は犬の劇である。
 だから、視線の劇である。
 私は、この芝居を、便宜上ストーリィで三つに区分すると、そのふたつを、殆どよいと思うことができなかった。野良犬たちの追跡劇と、大きな傷を受けた子供の困難な恢復と、彼女の人生に「感染」したふたりの女友達に就いての劇である。役者は皆、ずいぶん健闘していたけれども、結局、演出はストーリィを展開するのに終始した。お話の流れだけで十全に表現できるのなら、わざわざそれを演劇でやる意味は何なのか?ということになる。
 しかし、残りの三分の一は、ずいぶんよいと思った。理由ははっきりしていて、演劇でしかできないことを演劇でやろうとしていると思ったからである。だから、この芝居で、私がよいと思ったこの三分の一に就いてだけを書く。
 「魔物」がやってきたと表現される、何かとても大きな災害--劇中で、きわめて不用意に「シンサイ」という言葉が口にされるが、これは作り手の傲慢なのではないか。それは「シンサイ」を舞台に乗せることではなく、そう口走らなければそれが伝わらないのではないかと怯えてみせることそのものが、である--が起きてしまった後、生き残った夫婦がいる。
 夫は学校の教師で、子供たちから兄のように慕われている。しかし彼は、破滅的な災害が起る直前、空が奇妙な雲に覆われていた(「割れ雲」)のに、それが指し示す(と彼が考えている)破局を読み解くことができず、補習授業の子供たちを帰宅させてしまった。そのことが、彼らの死の原因になったと信じている。「魔物」の到来を生き延びた彼は、その後も以前と変らず「子供たちから元気を貰う」快活な教師を続けているのだが、同時に、壊れて、損なわれてもいる。彼は真夜中になると家を抜け出して、公園の野良犬を集めて補習授業を行うのである。野良犬どもが、彼の欠損を--死なせてしまった生徒たちの不在と、「割れ雲」を読解することのできなかった教師として失敗のふたつを--埋めている。教師は、どんな生徒であれ、生徒がいなければ決して教師になることができない。しかし生徒がいれば、彼はどんな教師であれ、教師であり続けることができる。もちろん、野良犬に幾ら故事成語や算数を教えても、できるようになるはずがない。人間ではないのだから、当然である。
 この芝居は、私たちの「現実」をはみだすことはない。「現実」とは実際に起きることではなく、それを支え、構成している認識のフレームのことである。例えば、私たちは、私たち自身の死を決して死ぬことはできないにも関わらず、人間は必ず死ぬのだと云う。つまりそれは、私たちの経験ではなく、私たちの生きている「現実」からやってきた認識である。別の云い方をするなら、私たちの「現実」とは、主語と述語の安定した関係の取り結びであると云うことができるだろう。「人間」と云う主語に対して、「決して死なない」という述語の結びつけは普通の情況では成り立たない。その成立不成立を支え、判断しているのが「現実」である。
 一見どんな奇妙な情況が提示され、台詞が発されても、この芝居のフレームは常に「現実」のなかにある。だからこそ、夫がどれだけ熱心に補習授業を続けても野良犬の生徒たちは何も学ばない。犬だからである。しかし犬たちがそうあってくれるからこそ、彼は出来の悪い生徒たちの教師としての振る舞いから得られる享楽をいつまでも手放さずに、安心して貪ることができるのだ。夫は狂っているのではなく、とても安定しているのである。
 さて妻のほうは、カタストロフのあと、多くのひとが死んだのに、じぶんは生きているということが確かであると思えなくなっている。そのため、始終、夫の視線を必要としている。夫をみつめるたび、夫からみつめ返されることを強く渇望している。みる・みられるという視線の関係が成り立つとき、妻は、自身が今みられているのだから生きているのだと感じることができる。生の確かさが視線の供給で更新されるのである。だから妻は、夫が蒲団を抜け出して、毎晩そっと家を出て行ってしまうことを、ひどく嫌う。それは夫が何処かで誰かと会っていることへの嫉妬でもあるだろうが、むしろ、それよりもさらに、朝になるまでの長い時間に、ふと目覚めてしまった彼女の視線が、それを引き受ける先を失って、とめどなく彷徨いだすことになってしまうからなのである。
 夫婦は、たびたびTVゲームをする。それは格闘ゲームで、夫と妻は、舞台上で客席に向かって正対して並んで立ち、さまざまな技の名前を叫ぶ。実際の格闘技なら、プレイヤはプレイヤと相対する。しかしTVゲームの場合、それが生身のプレイヤの操るキャラクタ同士の対戦である場合も、私たちは相手のプレイヤではなく、彼が操作するキャラクタが映るモニタと正対する。妻は最初、格闘ゲームが上手でも好きでもなかったが、夫の不在の夜、留まる場所を失った視線を、しかたなくモニタに向け続け、ゲームの操作に没頭していたので、やがて、すっかり夫を打ち負かすようになる。
 だからと云って、幾らゲームをやって時間を埋めても夫婦の視線は交わらぬままなので、野良犬を教えることで安定した精神の健康を享受している夫と異なり、視線を欲する妻は不安に苛まれ続ける。
 そして、妻は、犬に変身する。
 犬となった妻は、家から飛び出して、外を駆ける。
 やがて、妻は、犬と人が同じ立場で暮らすことができると謳う「王国」に辿りつく。妻は、その施設の「王様」と「女王様」と名づけられた二頭の犬の息子である若い牡犬の「王子様」に見初められ、婚姻し、子供を孕む。だが、しばらくすると「王国」は崩壊し、混乱のなか、妻は胎のなかの子供の父である「王子様」犬を棄てて「王国」を脱出し、再び、夫のもとに帰る。
 夫は、足許を決して離れず、いつも潤んだ眼でじぶんを見上げてくるのが一頭の牝犬であり、しかしあの妻であることを同時に了解している。夫は、この牝犬を妻であるかのように感じているのではなく、この犬はあの妻が帰ってきたのであるとはっきりと判っているのである。
 だから、此処から始まるのは新しい狂気や逸脱ではなく、すっかりこんぐらがってしまった夫婦の関係の糸の結びなおしとなる。
 夫は、あらためて妻を「うつむいていつくしむ」ようになり、野良犬への補習授業から引き出していた貪婪な享楽から、やっと抜け出すことができるようになる。そして妻は、彼女の根本の欲望であるところの、この夫からのいつくしみの視線を常に浴びて、すっかり寛いで、「ワン!」と啼く。
 芝居の終りで、夫が「妻が子供を生んだ!」と叫ぶ。その声は、盛んな喜悦できらきらと輝いている。
 彼の嘗ての教え子であり、大きな災厄の生き残りでもある若い女が、「それは犬の仔ですか?」と訊ねる。
 夫は「そうです、もちろん犬です。しかし、子供は、何にだって変ることができる」と答え、未来に於ける無数のメタモルフォーゼの予感を、確信を帯びた表情で語ってみせて、或る穏やかさのなかで芝居は終る。
 このときの、「犬に変化した妻から生まれた子供がやはり犬の仔だったから何だというのだ。子供は、何にだって変ることができるじゃないか」という夫の言葉は、錯乱の言葉ではないし、つらい情況からの惨めな逃走でもない。彼は愚直に、私たちがなぜか此処で生きている「世界」の汲み尽くせなさに就いて述べている。
 彼は、きわめて、まともなことを云っているのである。
 しかしそれは「現実」から判断すると、きわめてまともではないと受け止められるだろうことを踏まえて、リアリズムのフレームのなかで思考しながら、でも、それがやっぱりきわめてまともなことなのであると「現実」にきちんと伝えるには、どうやればよいのか。
 云うまでもなく、そのために召喚されたのが、演劇なのである。
 とても具体的で簡単な例を挙げるなら、「妻が犬になった!」と夫が叫んでも(そもそも彼らは妻ではなく夫ではなく、その役を演じる役者である)、実際には、妻は決して犬にはなっていない。なっていないが、観客席の私たちの「現実」は、妻は犬になったとして、それからは舞台上の妻をみるようになる。つまり、私たちの「現実」とは、少なくともその程度には堅固ではなく、ゆらゆらと揺れ動く幅を保持しているものなのである。云い換えるなら、演劇という装置を媒介することで照明が当てられるのは、一見堅牢な私たちの「現実」が、実際はきわめて可塑的であるということである。何なら、演劇を含め、いわゆる藝術なるものができることは、わたしたちの「現実」がどんなかたちをしていて、どんな位置を占めているのかを示し、こわばった「現実」に可塑性を齎すことだけなのであると云い切ってしまってもよい。
 この芝居の三分の一では、その演劇の力が、きわめて荒削りだが、実現されていたと思う。
[PR]
by spacedrama | 2011-07-29 14:38 | s×d2011 | Comments(0)
ピンク地底人さんの「ある光」を見ました。


前評判で、「京都っぽい」という言葉をブログやtwitterで聞きました。

どうやら関西小劇場演劇の中には、「京都」というジャンルがあるそうです。
比較対象として「大阪」や「神戸」があるらしい。「兵庫」ではないらしい。あくまでも「神戸」。
狭い京阪神。大阪出身だけ、京都出身だけ、神戸出身だけで構成されている劇団なんてほとんどないでしょうから、「っぽい」というジャンルは、おそらく作品がどの地で練られ、生み出されるのかということなのでしょうか?

舞台美術が非常に好みです。
舞台中心にミラーボールや、舞台背面の鏡の破片のようなもの、上手側には七夕を連想させる銀色の短冊が連なって、光が当たるとキラキラ反射します。丸いボール、多角形の鏡、長方形の短冊、大きさもかたちも材質も違えば、光が反射する角度やタイミングも変わってくるので、美しい光はもちろんのこと、「時間」を強く意識せざるを得ない、感覚で刺激する仕掛けには息を呑みました。

「光」と「時間」って違う軸上にあるわけですよ。軸を飛び越えて想起させる、これはとんでもないことだと思います。

そう、「時間」が、私はとても気になりました。

この作品を見ていると、人が光を受信して、次の行動を起こすまでの時間、思考する時間、思考してそれを発信するまでの時間、発信から到達までの時間、到達から受信されるまでの時間、に、作り手がとても価値と愛着を持たれているのだろうな、と思いました。

そういえば、大阪にいると、梅田の動く歩道だったり、やたら早口で喋ったり、30秒に1回笑いを取れと言っていたり、短い時間の中に、どれだけ凝縮出来るか?ということを、無意識のうちに強要されているな、と感じることがあります。普通なら30分かかることを10分でやっちゃおう。それが出来たらラッキー!という考え方。短い時間の中に長い時間をかけて起こりうることを詰め込むことに価値がある、お!特したな!スピーディだな!サービス精神が旺盛。お芝居も、「スピーディで、盛りだくさん。時間感じさせなかったねー」というのが好まれているような気がします。

ところがこのお芝居を見ていると、1秒なら1秒、5分なら5分、その時間そのもののことを謳い上げているように感じます。1時間30分という長さは、座っている私の体感と一致するものでした。しかし、その間、相手に光の信号が到達するまで、太陽から地面まで光が飛んで、それが人々の目に届いている光景が、客席の私に届くまで、宇宙をめぐって、私たちの脳内信号をめぐって、壮大な旅が行われている。たかが1秒、されどこの1秒の中には、こんなにもたくさんの出来事があるのだよ。

だとすれば、この時間の体感の違いが「京都っぽさ」の要因の一つなのでしょうか?

しかし、作り手はきっと自分達のこと「京都っぽい」とか「大阪っぽい」なんて思って作られてないでしょうから、この時間の捉え方の違いは、どこでそうなるのか、ピンク地底人さんを始め、今後、土地と作品という繋がりは無視して見ることはできなくなりそうです。私にとっては新しい気付きでした。



プラズマみかん 中嶋悠紀子
[PR]
by spacedrama | 2011-07-23 17:25 | s×d2011 | Comments(0)
・あれから、震災についての演劇を2つほど観る機会があった。1つ目は燐光群、2つ目は秋に仙台のカンパニー・三角フラスコと合同公演を行うA級Missinglinkの本公演に向けたトライアウトだった。
何らかのカタストロフと如何に向き合うか?距離設定の立て方において2つは対照的ともいえる。普天間問題をも強引に絡めながら原発・放射能汚染問題にまで手を広げ、震災の被災者まで出てくる前者の過剰なまでの直接性に対し、後者はそれを徹底して迂回する。迂回や置き換えを駆使し、語る為の視座を獲得するための作品と言えるかもしれない。そして正直に言えば、僕は前者の作品に対し疲労にも似た違和感を終始感じていた。端的にいえば、僕は今、この状況下で、被災者を演じることなど出来るのだろうかということかもしれない。
わたしはあなたにはなれないし、あなたはわたしにはなれない。俳優とは不思議な生き物で、その前提を簡単に乗り越えてしまう(ように見える)。でも、その役が味わったどんな喜びも悲しみも、演じた私のものではない。役は死んでも、演じた私が死ぬわけではない。その役がとびきり不幸でも、演じる私はそこそこ幸せかもしれない。
演技者はあくまで演技者でしかない。俳優は基本語り部でしかない(当事者と非当事者としての語り部のある種アンビバレンスな関係は、そのままなっちゃんとあくえり/ももてんの関係として描かれる。そしてその構図は震災とこの作品の関係に当て嵌まる(ようにも見える)その見事さ。または俳優という存在は決してなっちゃんにはなれず、あくえりとしてしか存在出来ないということ・・・!)。
しかし、そんなことをかんがえだすと、もうなにもできなくなるじゃないか。

・3.11以後、という言い回しは僕にとって、実のところそこまでしっくりこない。事実、原発事故に伴う放射能汚染が今でも進行している可能性が大きいと言う不安―もしかしたら私たちはまだ災害の真っ只中にいるのかもしれない。危険厨と言われればそれまでだが、物理的な距離の問題も含め、いわば災害後と災害の只中の間でぼんやりと気付けば宙吊りにされている感覚である。
そして物語とは即ち物語られたものであり、過去時制に属するものだとすれば、少なくとも宙吊りにされている非当事者としての僕は今、あの日にまつわることを直接的なコトバとして、物語に仕立て上げ挙句の果てには消費することなど出来るのだろうかとも思う。

・この「わんころ」はあくまで16年前の阪神淡路大震災についての作品、らしい。しかし、この状況下では誰もがこの作品をそれに留まらず3.11にまで結び付けて受容するだろう。結果、この作品は阪神淡路大震災という近過去にまつわる物語をきちんとフィクションとして語り終える形式を取りながら、東日本大震災という進行中の現在を不可避的にその射程の内に入れてしまう-僕が感じていたうっすらとした違和感も恐らく其処に起因する。そして物語の最後、非当事者としての語り部あくえりは「北」へ向かう、と言うのだ。
僕は少し考え込んでしまった。非当事者の近過去の物語が当事者の現在をも直接的なコトバでもって物語に回収しようとする、物語ることの暴力性の萌芽と言えばいいのか・・とにかく作家はその一つの台詞で「今」に大きく舵を切った。勇気ある行動には違いない。演劇に限らず映画にしろ音楽にしろ、現在をどう扱うのか、如何に対峙するのかが今まで以上に問われる時代になっていくのかもしれないのだから。

-----------------------------------------------------------------------------------------------------------
・三田村 啓示 
役者/空の驛舎/C.T.T.大阪事務局 現在演劇フリーペーパー「とまる。」に時評連載中
犬は好きです。
[PR]
by spacedrama | 2011-07-20 19:49 | s×d2011 | Comments(0)
space drama2011第二走者、プラズマみかんを観劇。
開場してから30分座るのが苦手なため、ツルを10枚ほど折って5分前に入場する。
既に席は埋まっていて、急遽椅子を用意して頂く。個人のワガママで迷惑かけたものだ。

舞台は應典院を最大限に使用できるように可能な限り広げたような舞台。
暗転となり明かりが点くと、ドン!と大勢が綺麗に勇ましく立っていて気持ちがよかった。
そこから犬達がスピーディーに逃げる疾走場面で、勢いがあって期待が高まる。
が、その後の展開は冒頭の風に乗る事なく震災のドラマが語られていき、
思っていた作風ではなかった事が解る。
作者が経験した事実、真実、想いなどが、とてもストレートに作品の色を塗りつぶしていく。
それと同時に、やりたい事もストレートに作品を彩る。
そういった意味で、この作者と、この劇団と、このメンバーでできる事に目一杯力を使った作品だと思う。
それは本当に素晴らしい事で、物作りの基本だ。

けど、それら全てが作品の終着に向かって比例していたわけではないし、共存できてたわけではない。
比例する必要はないのだが、少し烏合の構成になっていて、
僕の頭では追いつくどころか、追いかける事もできずに、
とりあえず帰ってくるであろう場所で待つしかなかった部分も多々あった。
待つのみとなると不安もつのって、時間の流れが遅く感じて、予定上演時間と体感が狂う。

じゃあ、ダメだったのか?と問われると、そんな事は一言も言ってなくて、
やはり、やりたい事を目一杯詰め込んでみたのは素晴らしい事だ。

そうする事で、近道、裏道、気持ちのいい遠回りなどをマスターしていって、良い作品を生み出していける。

今後も今回の作品のように色んな道を歩んで欲しい。


プラズマみかんさん、第二区お疲れ様でした!
[PR]
by spacedrama | 2011-07-19 13:58 | s×d2011 | Comments(0)

ピンク地底人「ある光」

Mayの金哲義です。
space drama2011の幕開けを飾るピンク地底人さんの作品を観劇しました。
(以下、自分の文体で語らせて頂きます)

「年配なのに若い人達の演劇祭に参加して大人気ない!」
と方々から罵られるspace drama2011の第一歩に足を踏み入れる。
シンプルなようなシャープなような印象(実際はしっかりと立て込んでいるのに押し付けない)に化けさした会場に胸踊る。
大学時代に京都に住んでいて、演劇の初期の頃は京都の演劇ばっかり観ていた。
数ある劇団の中で唯一「ファンです」と言える「劇団飛び道具」も京都だ。
固定観念かも知れないが「やりたい手法に力を惜しまない」意識を京都の劇団は強く持っている気がする。
演劇論を開口すると「あぁ、語らなきゃよかった…」と陥る理屈の交換にたどり着くので、この辺にしておく。

とにもかくにも、僕は京都の劇団には期待値を高めてしまう癖がある。

物語が始まると人々が現れ、人々の連なりに比例して台詞が連なり連弾となる。
舞台が化けて空間が化けて世界を構築しているだけに、
役者達の衣装の着こなしや顔の作りにバラつきを感じたのは少し残念だった。

*ここまで始めといて何だが、僕は劇評をするのが大嫌いだ。
僕は演劇の観察力が皆無である。
僕が男で、仮に演劇を異性に例えるなら、髪の色、ピアス、散髪の有無、指輪、爪の色、着てきた服、そのどれもに気付いてあげれない。
そして初対面でたった一時間半から二時間話しただけで、人格や生活を分析しなければならない。
偉そうに語っても「全て演出の意図でした」と返されるとオセロが全部ひっくり返る。
劇評は劇評できる観察力を持つ人がすべきなのだと痛感する。*

という前置きをした上で。

役者が多数出演すると舞台への意識は様々で、特にメイクに関してはバラつきは激しい。
衣装だけ着て出る人、メイクをきっちりして出る人、髪の一本まで整えて出る人。
そしてそれらが統一されて役者が舞台に出ている例は、小劇場では少ない。
今回の作品でも少なからず、そのバラつきは見えた。

物語に入ると、人々は残像のように反響のように共鳴のように流れていき、法律的にダメなものを吸いながら観たならば間違いなく(演出家が意図しないかも知れないが)別の世界観を体験できそうな気がした。
ドラッグ演劇の要素がある。毒素を血液に入れずに観るには大変もったいない。

全員、舞台から去る事もなく、全員が全ての役を語る。
僕ならば二分で頭パンクしてしまう。
ナレーションがあるものの最初は理解が追いつかず、が、少しづつ整理されていく。
全員が連なって動いていくものの、決して一糸乱れず統一されているわけではなく、全体的に緩さはスパイスとして散りばめられている。
むしろ連なる動きよりも、意図している世界観はその緩さの方なのだと思う。
何も特殊でない登場人物と日々繰り返される日常。日常に潜んだ異常。
緩く連なる者達が「友情、努力、勝利」をモットーにしていた少年ジャンプを批判する場面はもしかしたら世界観の核だったのかも知れない。
マクロからミクロまで、「光」達は行ったり来たりを繰り返して、例えちっぽけな存在でも変わりなくこの世の理すべてを秘めている事を訴えてくる。(できれば鳥のミクロも見たかった)

きっとこの世界観はこの先も色んな要素を含んで抜いて変化させて繰り返して、
この劇団と作家と演出家の個性を年月をかけて、ゆっくりと、そして突然、完成を見せると思う。
この次もこれからも惜しみない力と惜しみない個性の発揮を!!


ピンク地底人の皆さん、客演の皆さん、スタッフの皆さん、第一区爆走お疲れ様でした!
[PR]
by spacedrama | 2011-07-16 22:05 | s×d2011 | Comments(0)
コレクトエリットべかおです。

よろしくお願いします。

演劇はなんて無力なんだろうといつも思ってます。
無力であることにあらがいたいといつも思ってます。

現実逃避という言葉を前回のピンク地底人さんの回に使いました。

今週のリレーブログのテーマにも近しい。

いまこの現実のシビアさは、いつなんどきも変わらない。

つねに不幸を味わっている人が、いまこの瞬間にもいるからです。

そもそも、尽きたことはないのです。悲しい事件や事故、苦しい様々な出来事は。

それらとどのように向き合うのか。

それが、中嶋さんにとっての演劇なのだろう、と思いました。

自分のなかにある言葉にならないもの、それらとしっかりと向き合うための手段。

ご本人が出演されている理由もまた、そこにあるのかも。

強い想いが先走りすぎて、客席で僕は少々置いてきぼりになっていました。

でも、たぶんそれは悪いことじゃない。

そういう、あなたとわたしはちがうのだ、という事実がこれほど突きつけられることはない訳です。

しかし、強いテーマが軸になると、共有せざるを得ないものもあり、うかうかしてもいられないのですが、今回の僕は、客席でうかうかしてしまって、そのまま劇場をあとにしてしまいました。

そうして、大きく反省するのです。

なにやってるんだ俺は、みたいな。

そうやって、夢にも思わなかった出来事が起こって、やっぱり反省するのでしょう。

逆ギレだってするかもしれない。

演劇の客席では、基本ヒマするものです。

Mayの金さんは、会場中の客席に30分座るなんてもっての他で、いつも開演5分前に着席されるそうです。

僕はヒマするの好きなので、金さんとの会話ではお互いがお互いの話に新鮮な驚きがあって、楽しかったです。ありがとう、金さん。

終演後も、誰かと話しながらツルを折れば良かった。

それも、演劇の力かもしれない。
[PR]
by spacedrama | 2011-07-15 18:23 | s×d2011 | Comments(0)
西田博至です。
アラザル』という雑誌で、あれこれものを書いております。
演劇に関しては、ただの見物人です。


------------

 【規則を理解する】

 12人の俳優が舞台に出てくる。舞台の外から、スピーカを通して男の声が発せられる。声だけのこの存在を、ナレーターと名づけておく。ナレーターは、この『ある光』と題された演劇の要となる13人目である。
 ナレーターが発する「宇宙」とか「飛行機」とか「覗き男」とか「妹」などと読み上げる声のあとに、12人の役者たちが一斉に動き、台詞を発する。これが繰り返される。どんな演劇もいきなり始まり、観客は、そのなかにしばらく身をさらすことで、その連続する唐突さを駆動しているだろう何らかの規則を読み込むことをしている(無論、その読解した規則は不変ではなく、新たな唐突さが舞台上に到来することによって、変更や破棄を迫られることもある)わけだが、そのようにして、やがて舞台を眺める観客は、まず、次のようなことを理解したと考えるようになる。
 つまり、ナレーターが、例えば「妹」と提示すると、その直後から開始される舞台上の12名の役者の動きや発話は、12名の役者の声や姿かたちの何もかもがまるで違っていても、それらが指し示しているのは、ほかの誰でもなく「妹」ただひとりの動きであり発話なのである、と。12名の役者はそれぞれが表出する異質さのままで、ナレーターが提示した、たったひとりを演じているらしい。それは「妹」が「病室のいす」や「少年ジャンプ」に変っても同じである。
 同じことを、この演劇に於ける「場面」のほうからみる。ひとつの場面の構成は、ナレーターが語りの主体を提示することで始まり、ナレーターが次の提示を行うことで区切られる。ナレーターが一回の提示で複数名のそれを行うことはないので、12名の役者は、提示されたひとつの何かを全員で演じることになる。なお、新しい場面が始まった際、前の場面の語りの主体(例えば「病室のベッド」)が、役者の数を減らして舞台上に残っていることがあるが場面を構成する発話の主体とはならない。しかし、この例外も、たびたび生起するものとして、すぐにこの演劇の規則として、了解済みとなる。
 まとめると、この演劇に於けるひとつの場面とは、原則として、12名の役者によって構成されるたったひとりの場面であり、だからその場面を埋める言葉もまた、12名の役者によって構成されるたったひとりが発する言葉、独白である。これが「宇宙」、「天の川」、「飛行機」……というふうに大きなものから小さなものへという規則を守りながら繰り延べられてゆく。

 【分割すること】

 ナレーターの提示は、ひたすら対象を絞り、分割してゆく。
 劇中、ナレーターが提示する最も大きくて遠いものは「宇宙」であるが、それは徐々に「天の川」や「飛行機」のように縮んでゆき、「京都宇治」にいるらしい「妹」のサイズに照準するが、さらに「妹の眼球」から「妹の眼球のなかの遺伝子」、ついには「妹の眼球のなかの遺伝子のなかのミトコンドリア」……というふうに、どんどん分解されてゆく。
 しかし、ナレーターが提示する対象がどれだけ大きく膨らんでも小さく縮んでも、ナレーターが提示したひとつの何かを、複数の役者が12名を上限とする纏まりで演じるという規則は保持され続ける。
 つまり、「宇宙」であろうが「病室のベッド」であろうが「ミトコンドリア」であろうと、それらは総て同じサイズの言葉を発し、同じレベルで身体をくねらせるということである。
 世界のあらゆるものが、ナレーターの提示と役者の身体性によって、ひとしなみにされる。「宇宙」は「ニート暮らし」をしており、「天の川」は「エビちゃん」のような「腰のライン」を誇示し、「少年ジャンプ」はみずからの面白さを自己言及することなどから、ありとあらゆるものが私たち人間のレベルに揃えられ、平準化されていると云ってもいいだろう。全部が擬人化されている、と云っても構わない。
 だからこの舞台はずっと、人物の顔のクローズアップのショットだけで構成されている映画のようなものなのである。

【退屈すること】

 ひとつの場面でひとりが喋り、動き、それらは一定の規則で構成されており、そのひとりを複数で構成している12名の役者たちの声や身体の癖もみえるようになってくる。暗い観客席で坐って前をみているこちらが、それまでの時間で獲得した読解と、それによって導き出される予期が覆されることが殆どなくなってくると、ごくあっさりと、退屈が訪れる。
 退屈の波のなかで、ぼんやりと、考えはじめる。
 この世界のこと、などを。
 注視するならば、世界は常に、驚くべき変化で満ち溢れている。しかし、私たちはその変化の相だけで生きているのではない。夜眠り、朝めざめて、私の隣でやはり目を覚ました妻は、きわめて精確に云うならば、昨晩の彼女とまったく同じ彼女ではないし、それは私も同様である。云うまでもなく、彼女や私が生きているからである。しかし、私は、私自身をそう見做すように、昨晩の妻と変らぬ妻として今朝の妻を認識するし、そうでなければ私は、妻と暮らすことなどできないだろう。
 日々のくらしで私たちは、実際には間違いなく存在している無数の変化を、夾雑物やノイズのようにして意識のフレームの外で切り取ることで、きのうときょうを地続きで変らぬものとして、暮らしている。変らぬものが退屈であるとするならば、くらしとは、退屈を欠いては成り立つことができないことであると云うこともできよう。
 さて、この『ある光』と題された舞台で繰り広げられているのは、ありとあらゆるものの平準化であると、さっき書いた。そして、そういうことが行われているということは、どういうことなのか。ごくシンプルにまとめるならば、それは、安定化だろう。これは、たとえば「名前」をつけるという行為に、まっすぐ通底している。
 仮に、「私」という言葉を使うと、「この私」はまるで安定した個であるかのように表記することができるが、ちょっと難しい選択を迫られたときなどを思い出してみれば誰だって思い当たることだろうが、「この私」はちっとも安定などしていない。私のなかの私たちがめいめい勝手なことを云いあい、まるで考えがまとまらぬというようなことは、ごくあたりまえのこととしてある。だから、12名の役者がその異質さのままでたったひとりを演じるということは少しも不思議ではないし、むしろ「この私」なるものの実相に近いと云ってもいいだろう。しかし「宇宙」や「病室のいす」は、そういうものではない。むしろ、そういうものではないとかそういうものであると云うようなことすらできない、と云うか、そういうふうに云うことに、殆ど意味がない。なぜならそれらは、私たちとはまったく何の関係も取り結ぶことがないものとして、私たち人間の外側に在るからである。
 なるほど、「宇宙」や「病室のいす」は私たちが私たちの使用目的に沿って、そういうふうに名づけたり、或いは私たちの手で造られたから、私たちに了解可能なものとして「宇宙」や「病室のいす」として存在する。しかし、仮に、「宇宙」や「病室のいす」からその名前を奪ったからと云って、これらのものがそれと同時に消滅するというようなことはない。名前のない、何かわけのわからないものが私たちの外側にそのまま残るのである。そういうような在り方をしている何かが在るということは、私たちを脅えさせる。だから私たちはそれに「名前」をつけるのである。私たちが何でもかんでも平準化したり擬人化することが大好きなのは、私たちと何の関係もなく、しかしまるでそれに怖じることもないようなしれっとしたふうで、たまたま其処にぽんと在るものに、私たちが、よく耐えることができないからではないか。あらゆるものを分析し、定義し、無数のノイズをカットすることで、私たちは総てを、私たちのものにしてゆくのである。

【衝突することと演劇の秘密】

 ナレーターの提示のあと、その提示されたひとりを、ひとつの場面で、12名の役者の身体と発話の行為で演じてゆくというこの演劇の規則は、いよいよ芝居の終わりに近づき、あっけなく放棄される。
 「妹」であるひとりの若い女の役者が舞台の中央に立ち尽くしていて、彼女に向かって真横から、両腕を水平に大きく広げた男の役者が、墜落する「飛行機」として、勢いよくまっすぐ衝突する。「妹」はなんとなく付き合った男の子供を孕んでいて出産間近であるが、あっけなく死ぬ。しかし、骸から抜け出して「魂」だけになった「妹」は、もうずいぶん前に「魂」になっていた「兄」と再び出会い、「黒焦げの死体になった妹」の胎内でまだ生命を保ち、生まれ出ようとしている「赤ん坊」のなかにふたりで入り、云わば、生前は果たせなかった兄妹の近親相姦を成就したところへ、やってきた「月の人」に拾われて宇宙へ旅立ってゆくのである。
 いよいよ神話のような彩りを濃く帯びて終るこの芝居のストーリィそのものは、特に論じたいことではない。芝居の終わりでそれまで維持され続けてきた規則が放棄されてもなお、この芝居を駆動してきたあらゆるものの平準化はまだ旺盛に作動していること--例えば、「妹」や「兄」は死ぬがその「魂」は残っており、その「魂」は生前の彼らとまるで変わらない--だけを確認できればよい。
 この芝居を終わりまでみて、興味を覚えたのは、「生」を「死」を「宇宙」を「病室のベッド」を「少年ジャンプ」を「ニート」を「ダイエット」を「モンダミン」を次々とひとしなみにしてきたこの演劇が、その総てを均す作業に失敗したものはあるのか、ということなのである。それはむしろ失敗ではなく意図的なものであるかもしれないのだが、兎に角、容赦なく振るわれ続けてきた平準化の力をよく行使し得ることができなかったものが何かあるのだろうか、ということなのである。
 ストーリィのレベルで云うならば、それは神話的な色を帯びた、妹と兄の秘められた恋愛であるかも知れない。しかし、そうであるなら、硬い椅子で一時間半の芝居をみた意味がない。演劇でなくても、漫画であれ小説であれ、他のどんなジャンルの表現でも、その程度なら充分にうまくふたりの恋愛を救うことはできるだろうからだ。
 もう、くだくだしく述べるまでもないだろう。この演劇が、たったひとつ平準化することに失敗(または回避)したのは、演劇そのものである。演劇なるものが持っている力である。
 それは、ひとりずつまったく顔も姿も違う12名の役者が、どうしてたったひとりを演じることかできるのか?ということであり、どうして「妹」に、両腕を真横に広げた男がぶつかるだけで、まるで飛行機が墜落して少女の暮らすひとつの町が燃えて彼女も死んだというふうに感じ、思わず胸のなかでちいさく「あっ」と叫んでしまうのはなぜなのか?というようなことを可能たらしめる力である。
 この舞台は、ありとあらゆるものに私たちと同じ言葉を喋らせ、私たちと同じレベルとサイズにひきずりおろす演劇だったわけだが、そもそもそれを可能としたのはそのような演劇の力であり、結果、演劇の力だけは平準化を被ることを免れている。つまり、この『ある光』と題された舞台は、演劇の力への信仰を、ひたすらに示した舞台だったと云ってもいいだろう。これは演劇を覆したり否定したりする演劇ではない。演劇へ全面的に帰依した演劇だった。

【劇評すること】

 しかし、こうやってつらつらと考えてくると、当然ひとつの問いの前に立たされることになる。
 なぜ演劇はそういう力を持つことがあるのか、という問いである。
 云うまでもないが、これを考えることは、今私たちがずっとみてきた『ある光』という舞台の仕事ではない。もろちん、それを考えていないからダメだなんて、云っているのではない。
 劇場という空間の客席と名づけられた暗がりに坐って、舞台を注視することで、そういうようなことや、そういうようなことではないことを、あれこれと考えて、何かを書くということが、劇評というものの仕事なのだろう。
 それは単に、じぶんの裡でめいめい勝手にぽこぽこと生まれた何かを書くということではない。
 それでよいのだったら、わざわざ舞台をみて書く必要がない。
 あくまで、じぶんの外に、じぶんとは無関係に、しれっとしたふうに在る舞台というものと衝突することによって、じぶんの裡に生まれた考えなり想念を、何とか書き留めて文のかたちにしたものが、劇評なのであると思う。
[PR]
by spacedrama | 2011-07-15 13:41 | s×d2011 | Comments(0)

ああ、ごめんなさい

どうも、ピンク地底人2号の愛人、京都ロマンポップの向坂達矢です。
投稿が遅くなってごめんなさい。

ピンク地底人の演劇を観ました。
久方ぶりのピンク地底人。

SF!
SFのにおいが漂ってて非常に良いです。
役者をうまく使ってオシャレに空間を埋め、マクロな世界とミクロな世界をリンクさせていく感じ。
「世界の中心で愛を叫んだけもの」みたい。
世界のつながり方自体は、分かりやすい分人間的な論理に乗っかっちゃっててちょっとマイナス。
あくまでSFとしてですけど。

役者は個性的な癖の強い若手を集めていたから、
単なる演出の駒にしたくなかったんだろうけど、
役者は演出の手のひらの上で踊らされていたのでそこは微妙。
でもそこは役者の怠慢だから、演出悪く無いよ。
演出の世界観、アイディア以上のものをもって世界を広げられている役者はいなかった。
ただし、三鬼さん?
女の子でしかも可愛い。
この子は良い。
ちゃんと世界を構成していた。
世界を広げる強さではなく、世界をつなぎ止める空気をかもしていた。
ミニシアター系のいい感じの空気感。
良いよ。良い。
そういう意味では、ピンク地底人2号とか三鬼さんとかそういうのちゃんとできる役者あつめて、
普通に完成度上げていったほうがもっとウケる。

あとね、無いようでか細く紡がれるしょうもないミニマムなストーリー。
いいよね。
一昨日ブルーマン観てきたんだけど、すごいのよ。
涙でるくらいしびれるの。かっこよくて。
でも、最後までその感じは残らない。
なんてたって物語ないから。
今回のピンク地底人もその危険性ははらんでた。
お話無くても出来ちゃうのよね、こういう演劇って。
でも、ちゃんとお話あったから。
しようもねえお話があった。
村上春樹の短編とか川端康成の短編みたいなしようもねえお話。
でもそれでいいんだと思うよ。
そういうしようもねえショートショート好きなんだろ?
そのしようもねえ短編を丁寧に引き延ばしたらこうなる。
ちゃんと真摯に描こうとしてた。
いいんだと思うよ。

ぼくはこういう演劇しないけど、こういう演劇いいと思うよ。
演劇エリートの香りがする。
なんとなく。
頭いいんだろうな。
でも大バカやろうなのね。
殿村さんとか使っちゃうところ。
出来心でしょ?
ぼくも殿村さん使いたいもん。

また公演あるときはさそってね。
京都ロマンポップの向坂でした。。。
[PR]
by spacedrama | 2011-07-15 11:35 | s×d2011 | Comments(0)
blogにて失礼いたします。
Micro To Macro様より依頼を頂き劇評を書かせていただきます、ステージタイガーの虎本剛と申します。

さて、プラズマみかんさんの「わんころが揺れ雲をめぐる冒険」を観劇させていただきました。

この作品は「災害から生き延びた犬達」「被災して転校した子供」「被災して生き延びた先生」の3つの話を軸に展開されます。
犬達は街を破壊した魔物を捜して群れをなしています。
その街から生き延び逃げて来た少女なっちゃんは、被害者として人間関係の狭間に揺れます。
その元先生のウメトラは、生徒を救えなかった罪の意識で、夫婦関係も冷えきり、深夜野良犬達と過ごしています。
やがて、成長したなっちゃんが創った「わんころ王国(だったと思います)」でその3つの世界は入り交じり、それでも前に進むんじゃないかという印象を与えて収束しつつ、未来へ発散していくのです。

この作品は観る人間の「立ち位置」により、与えられる印象が大きく違ってくる逸品です。
というのも、この作品の背景にあるのが、阪神大震災であるからです。
大阪生まれ大阪育ちの俺にとっては、心痛めど、どこか遠い話だった震災。転校したなっちゃんが裏山で、ももてんやあくえりと会話するシーン。子供ながら「弱点見つけて安心した」というような一連の台詞。グサリときました。
被災した人間を神様のように奉るシーン。グサリときました。

でも。

正直に書くと。
ここからは俺の劇評というより、ただの論拠の無い感想レベルなのですが。
物語に没入するまでに少し時間がかかったのです。
最初の30分くらいは、正直、わけが分からず散漫に観てしまいました。
俺がとても頭悪いという事をふまえて下さいね。
俺、本当にこの作品がSF世界で魔物の話やと思ってましたし。犬が、役者がパーカー被ってスタンディングの演技をする犬が、本物の犬なのかもよくわからなかったのです。未だに先生の妻の腹に出来た子供が何を意味しているのかよくわかりません。なんで外郎売りをいうのか、ほんま分かりません。当日パンフレットを読んで、ああ先に読んでから観れば良かったと思った次第です。
理由を考えると、一つは「安定感」かな、と思うのです。
上下センターと置かれた美術。円形の劇場に3点ポイントのシンメトリー美術が、抜群の安定感を与えてくれます。なおかつ、役者陣がとても稽古を重ねられたのでしょう。ほとんど無駄無く動き、稽古場の再生産がごとく喋っていくのです。
扱っているテーマの重さに対する観客席の逃げ道が無い。
震災をモチーフに震災を受けた人々が震災の話をする。
その熱量を埋めるのに、受けきるのに、どうしても散漫に逸らして観てしまったのかな、と自分なりに考えました。

でも。

作者の体験がとても反映され、自分の考えをぶちまけたこの作品はとても素晴らしい作品です。
なかなか書けるもんじゃないし、出会えるもんじゃない。
観た後、おおいに語れる芝居です。
そして何より真剣さを感じます。そこをもっと全面に押し出したって良い。
俺は真面目な演劇が、演劇人が大好きです。
作家として中嶋さんを愛してしまいました。
ぜひ多くの人に観てもらいたいと思いました。

ステージタイガー
虎本剛
[PR]
by spacedrama | 2011-07-15 07:59 | s×d2011 | Comments(0)
プラズマみかん「わんころが揺れ雲をめぐる冒険」を観ました。
Micro To Macro 石井です。

まず観終わって。中嶋さんの作品への真剣さに打たれました。
作品に向き合うのに真剣であるのは当たり前なのですが、今年震災をテーマにした作品をするということ。パンフレットでも語られていましたが、ご自身の体験から何年も経ち、書こうとやっと決意して動き出した日が3月11日だったと。

そこで、どれだけの勇気と決意でもってこの作品に取り組むことにしたんだろう・・と想像するだけで凄い。私は阪神大震災の時も東大阪にいて全く何の被害もなくて、今だって東北の方の尚も続く悲しみも不安も苦悩も本当に理解なんてできていない。そんな感覚の人間の方がきっと多いであろう観客の集まるこの会場でこの作品をする。

きっと中嶋さんの中でこの作品を今することに重大な意義があったのだと思う。
それは、被災した方へのエールとかそんな生やさしいものだけでなないはずだ。
何年も経つとどうなるのかということ。そして今の自分自身もしかと見つめているということ。
ああ、きっとこんな簡単なもんでもないと思います・・・。

難しいなと思ったのは、イタミはどこだ?と思った点です。被災者と被災していない側もきちんと描かれてあり、それはそれで大事なことだと思うのだけど、それにより私はどの感情を追って観ればいいのかなと感じてしまったところです。
被災して転校してやってくる屋敷さんの役どころが一番おとなしく、その他の役者さんには覇気があり、わざとそうしているのかとは思うのですが、怒りや苦しみがもっと爆発してもよく「魔物」である「震災」には、相手はもう化け物であるわけなんで、ストレートにもっともっと怒りとかどうしようもない想いをぶっつけてもいいのではないのかなと思った。でもぶつけてもどうにもならない相手なんだよ・・・だからその先にあるものは何なんだよ・・のような。私の単純な発想では、なんだかそんなものを求めてしまっていた気がします。

しかし最後に、なっちゃんに向かってみんなが語るシーンには胸が締めつけられました。
温かいのに、強く突き刺さった。
ああ、中嶋さんの台詞だ・・・と思いました。

自らの体験から自分の身を引きちぎる想いでつくられた作品であることは間違いなく、その深さと真剣さを強く感じる作品でした。
[PR]
by spacedrama | 2011-07-15 02:21 | s×d2011 | Comments(0)