space×drama2016の感想を様々な視点で載せていきます 。300文字以上の感想を各劇団が書いていきます。皆様もコメント欄に是非お書き下さい!


by spacedrama
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カテゴリ:s×d2008( 63 )

しまったな。のっけから挨拶がどうあるべきなのか、まったくわかりません。

と書き込むことで始めてしまいました。
べかおです。

何より残念におもうのは、自分の空気読めてなさに対して。ぬな。

そんなわけでミジンコターボ「スーパーソニックジェットガール」について、の前に事情説明という名の言い訳から始めたい所存です。

なるほど、確かにこれは読んでいただける確率がいっそう著しく減る気がしますね…
(何がなるほどなのか…)

いや、ほんとにあまり考えてなくて忙しくて、スペースドラマというイベントが終了したことにより必然的にここの閲覧率が下がることをまったく考えなかったのです。実際、僕が指針にしたのは竜崎だいちさんの投稿が(ほんと自分の細かい性格でイヤになるときもあります…)、本若⇔ケービーズを僕と同じ回(8月21日)にいらしてて観劇されていて、そのつまり1ヶ月と4日後に投稿がなされている。と数えまして、じゃあ1ヶ月以内にあげればいいか、とバカ無責任に思ってしまったのです。完全に身勝手な思い込みです…。なさけなや。さらに去年の劇評ブログを事前に見ていたのですが、ブログの最後は始まったときよりブロガーが半減している、自分はそうなるまいともまた思っており、だからフェイドアウトなんてことは全然考えてなく、それがなんか逆に、変な余裕を自分の中に生みました。最後のは自分でもよくわからない理屈ですが…。

さて。なぜこんなにも読む方々をげんなりさせうる言い訳をするのか。

まったく予期しない形で、僕の周囲に、怒りや憎しみ、悲しみが吹き荒れる、戦時下のような状況をよんでしまったのが、他ならぬ僕だからです。本当に申し訳ありません。

なんのことやらさっぱりの方々、なおさら申し訳ありません。反省です。ほんとに猛省であり、血が流れなかったことが救いであり、感謝をもって、精進していきます。

じゃじゃん。つまり、語るべきは作品について、であります。
しかし、僕も普段はどちらかというと、作る方に重心があり、今回の劇評ブログという経験は、なかなかどうして、自分には向いてない、とまず結論付けて、でも良い経験をさせて頂いたご恩に報いたい、そんな僕です。

ミジンコターボ、には関係が深いつもりでいます。
すべての作品を知っている、のみならず、旗揚げ公演には参加していた(このときの僕は未だ懺悔すべきことを抱えていますが、またいずれどこかで)、つまり結成以前からの歴史も含めて、僕自身の思いが強いのです。

片岡百萬両の才能はホンモノだ。と僕は出会ったときから思っています。

だから僕は、彼が作演出出演をつとめるこの番外公演を常に楽しみにしています。
今回のこの作品においても、彼の才気はきちんと息づいていたと感じました。

そして実は落胆も大きい。
それはなぜなのか。正直にいうと、自分でもうまくわからないのです。
今の彼がつくる作品に僕が物足りなさを感じてしまうことが。

でも今の僕に考えられるかぎり考えてみたいと思います。

感覚的にまずせめます。
かつての彼の演技は、危うく不安定で、それでいながら目が離せない魅力に溢れたもので、観ている人々に笑ってもらおう、楽しんでもらおうという極上のサービス精神とからまって、本当に感動的でした。
いつからか、危うく不安定であることに彼は恐怖を覚えてしまったんじゃないかと僕は客席で感じるようになりました。確かに、危ないもの、安定しないものは、人を不安にさせ、それは嫌われるようなことにもなる。そして嫌われることは誰でも怖い。そんな悪循環が生まれたかどうか、なんて知りません。おそらくはまったく違う形で、しかし人を安心させ喜ばせるサービスの在り方に、作品のこだわりは逸れてしまったと感じたのです。僕の完全な偏見ですが、ミジンコターボの団員が何度か入れ替わるようなことになっているのは、百萬両の極上サービスは素晴らしいが私らそのための商品になってしまっては自分がいったい何なのかわからない、といった混乱をきたし、以前の団員たちはひとまず距離を置くしかなかったのではないか、という風な、なんですか、例をあげるなら、スマイル0円シゴトだってわかってたって笑えない日もあるじゃない、という社会的にはまずい個人のわがまま、がかつての団員の方々に渦巻いてしまった、といえるのではないか。

何の根拠もありません。僕自身に置き換えて同じだから比喩のつもりでいくつも例をあげてみました。申し訳ありません。ネット上の文章なんて、妄想と想像のたまものです。あなたの思考のスパイス程度にとらえるべきです。

僕はミジンコターボの公演はすべて観ていますが、片岡百萬両の追っかけみたいなことは、ずいぶん前に卒業してしまいました。という話です。

すごく短絡的にしてしまうのですが、片岡百萬両の最大の魅力は、人間として彼が持っている「暴力性」と「幼児性」だと僕は考えます。この、すくなくとも男はたいがい持っているキーワードのバランスが素晴らしく面白い。そして笑った次の瞬間、自分の駄目さを笑ってしまったような、観客としての恐怖と快感と恥じらいが、ないまぜになって「感動」するしか、なかったのです。

スーパーソニックジェットガールの登場人物たちも、彼のその源泉から生まれています。それなのに、脚本上で語られるセリフ、演出として役者たちに求められているものが、そこから遠く違ってしまっている。そのギャップは、僕の全くの思い違いなら嬉しいのです。僕の感性が駄目になっているのならむしろよし。

僕はラスト、そこそこに感動を感じつつも、まったく手を振る気にはなれなくて苦しかったです。
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by spacedrama | 2008-10-08 13:19 | s×d2008 | Comments(1)
ama2k46です。
今回も大幅に遅れながら、ミジンコターボの『スーパーソニックジェットガール』の劇評を書かせていただきました。
ところで、Tシャツのデザインは、フロント・プリントでお願いします!(ジャケット着るので)。

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やられた。
これは正統派の松竹新喜劇だ。
テンポよく、からっと笑わせて、最後は、ぼろぼろ泣かせる。
ヨシモト的な会話や笑いが世の中の隅々までをベタッと覆い尽くすなか、松竹新喜劇を継承してみせたのは快挙だ。
噂どおり客席は満員で、難波の古本屋に寄ったので劇場に入るのがぎりぎりになり、しかも予約をしていなかった所為で私は、客席最前列と舞台ばなを隔てる隙間のようなところに案内され、これは参ったなァと思っていたのだけれど、このカブリツキが、のちのち、この舞台に於ける演劇の力の爆発の大きさを体験するには、絶好の場所だったのである。
舞台が始まってすぐ、映画で云うならいちばん最初のショットだけれど、スクリーンの隅々までを埋め尽くすどアップで、なぜかテカテカ褐色肌の藤山直美風のギンギラでまんまるな笑顔がいきなり映し出されるのを想像してくれ。
これは実際は後藤菜穂美と云う女優さんなのだけれど、まァこんな顔がよく平成の御代まで残っていたもんだと感心するような西郷隆盛フェイスで、全開にした白い歯を輝かせながらニカーッと笑う愛嬌の豊かさに、舞台が始まってすぐ圧倒される。
ブサイク(←褒め言葉)なヒロインが出てきたのならば、当然それを引き立てる美女が出てくるのは常套で、テンガロン・ハットと黒皮のブーツ、そしてパンク・ファッションとバッチリメイクで鎧った、ぷりっとした唇が上にツンとした(←ココ重要)まるで『フリクリ』から抜け出してきたみたいなベーシストのおねえさん、演じるは藍原こまきで、こう云うキツメのタイプが俺は本当に好きなんだなぁと舞台の流れとはまったく無関係な感慨を抱きつつ、脳ミソがきっとシンナーと善意でとろとろになっている愛すべきコンビニ店員(弘中恵莉菜)やらカネと食い物に目がない姉妹や、ポケットの奥でなくしたまま洗濯機を廻してしまった切符みたいにモロモロになった夢をひっそりと隠して生きてる男や白塗りの未来人やポルターガイストや田舎者の青雲の志やなんかを巻き込んで、やがて女たちはロック・バンドを結成するのである。
云うまでもなく、演劇が映画や小説などと異なるのは、或る拡がりを持ったひとつの空間を便宜上、舞台と客席に区切り、そのどちらにも生身の人間が乗っかって相対していることなわけで、だから演劇が他のジャンルの藝術に比べて、強烈にできることのひとつは、同じ空間を共有しているにもかかわらず、片や、闘技場のぐるりを埋め尽くした古代ローマの貴族たちよろしく「ワシらを愉しませるのぢゃ」と、客席と云う安全地帯に座って舞台を眺める人びとが保持している空間の認識に、リアルタイムで一撃を食らわせることだ。
その一撃の射程は、巧くするなら、世の中の常識やらシガラミやら何やらかんやら、生きてゆくなかで、知らず知らず乗っかってしまっている先入見やら臆見に揺さぶりをかけることにまで繋がり得る。
だからこそ、嘗て、書を捨てよ街へ出ようと唱えて演劇の上演空間を街頭に求めたひとたちがいたのであり、それとは逆に、ひたすら劇場の内側に立て籠もることで、演劇の持つ一撃の力を増加させようとする宝塚歌劇のようなカンパニーも出てくるわけである。
どちらにせよ、人びとの持っている「演劇ってこういうものでしょ?」と云う思い込みを攪乱させる演劇こそが、私の考える真の演劇である。
そして、『スーパーソニックジェットガール』は、劇場と呼ばれる空間を棄て去ることなく、篭城したままで、それを内側からバリバリと食い破り、するりと外へ繋げると云う荒技を華麗に決めてみせたのだ。お寺の真横の骨壷のようなかたちの劇場を、一瞬で、作・演出の片岡百萬両の演じるコンビニ店長の密かな夢だった、ライヴ・ハウスの記念すべきオープニング・アクトの場に変えてしまったのである。その転換の鮮やかさは、とても見事だった。
指摘するまでもないことだろうが、もちろんこれは、演劇から音楽(ライヴ)への乗り換えでは決してない。演劇は、ヴォーカルの彼女がステージ上にマイクを置く瞬間まで、ずっと続いているのだ。だからこの場面では、「スーパーソニックジェットガールのうた」が女優たちによって実際に演奏されるのと同時に、「スーパーソニックジェットガール」が「スーパーソニックジェットガールのうた」を演奏するライヴ・パフォーマンスの演技が演じられているのだ。しかし、その境界の見究めは渾然として分かち難くなっている点が、またじつに演劇的で、面白い。
これらを可能たらしめるのが、生身の人間同士が対峙している劇場と呼ばれる空間の懐の広さであり、演劇なるものの力なのであることは、云うまでもないだろう。
繰り返しになるが、演劇と云うフォーマットを徹底的に利用して、演劇でしかできないことをやり、演劇なるもののフレームを押し広げることができているものが、よい演劇なのだ。
この舞台に接して、これを異種格闘技戦や反則技、さらに、ライヴに至るまでの芝居が総てライヴをやるための方便になっていると批判される方もおられるようだが、それは演劇と云うものをごく狭く捉え過ぎている。
寧ろ私は、此処で実現されたことこそが、きわめてまっとうな演劇の力の発現のひとつのかたちなのだ!と、声を大にして叫びたい。
傑作でした。
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by spacedrama | 2008-09-25 03:35 | s×d2008 | Comments(3)
ミジンコターボの竜崎です。すっっっかり遅れました。

本若⇔ケービーズさん「かわうそくよう」、観終わったときから「うわー、なんて劇評書こう」と思い悩みました。他の方々が劇評を書いていくのを横目で見て、その内容を読んでまた、「うわ~、何て書こう」ってまた思い悩みました。今も尚、「なんて書こう……」って思い悩んでます。なんで思い悩んでるのかっていうと、とにもかくにも、こういうジャンルの劇評が出来るくらい、私の脳みそが賢くないってことなんですが(泣)
生き恥をさらすのがすでに分かっている。でも、書かねば。というわけで、恥をさらします。

会話劇って、私ほとんど観たことがないのです。観る機会がとにかくないっていうだけなんですけど、なので、何かと比較したりもできないし、どんなセオリーがあるのかもわからない。
事実は小説より奇なりって言葉がありますけど、その事実にとことん寄っていこうっていうのが、きっと会話劇なんだろうなあと、ほんのり解釈してるくらいです。
私か書くような台本は、事実と真っ向勝負をかけて惨敗するような立ち位置なんで、真逆っちゃ真逆になるのでしょか。

私の座ったところから、電源コードがあったことは全く気付きませんでした。残念。(劇場に入ったらすでに芝居が始まっていた(?)ので、見渡す時間がなかったのかもですが)
ほぼ真横みたいな所から舞台を観ていたんですが、わりかし整った形で芝居は進みました。なんだか、舞台正面とかあんまり気にしないよ、みたいな空気がありながらも、しっかり役者も舞台も正面を気にしていた感じでした。

会話劇だったんですけど、なんだか、芝居でした。やっぱり。うまくいえないんですけど。
特に「劇」も起こらないし、よりリアルには近いような感じはしたんですけど。
上に飾られたハッピに目線を促された瞬間、「ああ、邦画みたいな演出」って感じたりもしました。

意外と親切な会話劇だったのかもなあと、ふわりと思ったりもしました。

ああ、徒然なるただの観客感想ですいません。
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by spacedrama | 2008-09-25 00:45 | s×d2008 | Comments(1)

『病的船団08』をみて

ama2k46です。
本当に遅くて申し訳ない限りです。
『病的船団O8』をみて、劇評を書かせていただきました。

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開演前に、アンケートへの協力を要請された。
そのアンケートと云うのは、この演劇をみる前と後で、精神障害者に就いて書かれた、まったく同じ短い文章を読み、同じ設問に回答し、演劇をみたことで変化があったかなかったかをチェックする、と云うものだった。
私は回答せず、そのまま他の演劇のチラシと一緒に鞄のなかにしまい込んだ。
この演劇は、精神障害者たちが医師の監視の下で一艘の船に乗り込むところから始まる。この航海で、精神障害者たちが共同生活を行い、《社会》への復帰をめざす一歩とする、と云う設定である。だが、演劇が進むにつれて、航海は治療などではなく、或る企業がスポンサーとなり、精神障害者の集団をさまざまな状況下に置き、どのような行動を彼らがとるのかを人体実験して、モニタリングしているのだと云うのが判ってくる。
思わず私は、最初に配られたアンケートのことを思いだして、舞台上で暴露されつつある実験と、それを重ねていた。丁寧に組み立てられたセットの甲板上で、登場人物たちが、じぶんたちがモルモットにされていたことを知り、激怒し、絶望している。
云うまでもなく、あらゆるアンケートは、その設問が決定されたときから、そのアンケートを集めたいひとたちの意図(それが意識的であるか無意識的であるかは問わない)のバイアスが掛かっているものである。つまり、絶対にニュートラルなアンケートなどと云うものは決して在り得ず、しかも此処は劇場のなかである。そうであるなら、劇場の案内係たちが大きな声で、「ご協力をお願いします」と、アンケート用紙へ注意をたびたび喚起したのも、開演前に、初老の男性が立ち上がり、或る団体の幹部を名乗り、アンケートへの協力を呼びかけたのも、舞台を眺める観客席の私たちに、やがて、このタイミングで揺さぶりをかけるために周到に準備された演出であったとしても、何の不思議もない。寧ろ、劇場と云う奇妙な場所が持っている力を徹底して利用するなら、それくらいのことは起きるべきだ!……
……起きなかった。
そして私には、『病的船団』のドラマツルギィにも脚本にも、少しもよいと思うことができなかった。
しかし、そうであるのに、私はこの舞台をみるうち、その大詰めで、涙をぼろぼろと零して泣いた。それは、他者と交歓することを断念し、美しく自殺することを希求する少年と、何処やらの施設で実験の材料として使われてきた悲惨な少女が、延ばした手と手を、がっちりと繋ぎあうシーンである。
そのテーマにも脚本にも、これっぽっちも共感することができない芝居で、なぜ私は泣いたのか、どうしてなのかと考えてみたので、そのことを書く。
さて、この舞台には精神障害者ばかりが登場する。
しかし、精神障害者たちを演じる俳優たちの身体は、如何にも、しなやかに鍛えあげられている。だからそれは鍛えられ過ぎた筋肉ダルマでもなく、ボディビルにのめり込んだ三島由紀夫が、上半身を鍛えることに集中し過ぎて、両足がひょろひょろのままだったようなフリーキーな身体でもなく、徹底して合目的的で、健康そのものと云ったふうな身体である。それは謂わば、盛んに呑み、食い、他の肉体とぶつかり合っては盛んな嬌声を上げるだろう肉体である。
俳優たちのそんな身体からは、精神障害者の肉体から受けるむくんだような感じも蒼白さの印象も、吐く息に微かに混じるツンとした化学薬品の匂いも、些かも感じられない。
そして、俳優たちの端整な筋肉のきしみが、彼らの口から出る言葉を悉く裏切るのだ。
だから私は、演劇の大詰めで泣いたのである。
つまり、役者たちの肉体はあからさまに、他者と交わることを大っぴらに肯定しているのに、他者とのコミュニケーションを拒む精神障害者と云う役柄がちょうど拘束衣のようになっていて、その本来の姿を抑圧されている。しかしいよいよ大詰めで、精神障害者と云う設定でがんじがらめになっていた役者の身体が、ようやくその鎖を解き放ち、すみずみまで健康な肉体と肉体となってガッシリとぶつかり合い、抱きしめあったのをみて、私は心を揺さぶられたのだ。大いに感動したのだ。盛んなカタルシスを得て、泣き濡れたわけである。
真白な衣裳を纏った役者たちが破り棄てられた日記のページになり、くるりくるりと舞い踊る最後のシーンが美しかったのは、彼らの身体の美しさを覆い隠す台詞の言葉から逃れて、自由でしなやかな動きを回復したからに他ならない。
この演劇に於いて、その台詞や主題とは対照的に、役者たちの身体の奏でるきしみや調べは、とてもよく響いてきた。
もちろん、この演劇が精神障害者と云う存在を理解したり、その《社会》復帰を支える一助となるか云えば、そんなことは全くないと私は考える。
なぜなら、スラヴォイ・ジジェクの『ラカンはこう読め!』から卓抜な比喩を借りてくるなら(『チャンソ』の劇評のときも引用した。ネタが少なくて申し訳ない)、この舞台では「カフェイン抜きのコーヒー」や「戦死者(もちろん自軍の)を出さない戦争」のように、精神障害者から、その精神が傷を受けていることのどうしようもない危うさや痛みや厄介さをすっかり抜き取って、ただの無力な隣人に切り詰め、まったく安全な、謂わば「精神障害抜きの精神障害者」に変換してしまっているからだ。
さて、「特攻舞台Baku-団」は、アホを自称しているようである。
しかし、この『病的船団』は云うまでもなく、その終演後に併演された『爆発的紙芝居・Baku-団マスク』にしても、まったくアホではないのである。何処までも計算ずくなのである。
成るほど、それは「汗かきすぎてハァハァですオレたち」を略した「A.H.O.」であり、アホの意味じゃないのかも知れないのだけれど、そんなエクスキューズしているのが、やっぱりもう、ちっともアホではない。
ぼくたちアホなんです!と叫びながら、そのじつ少しもアホではないと云うこの賢しらさこそが、彼らの演劇を、小さくて、いびつなものにしてしまっている原因だと思う。
まだバレていないと思っているのかも知れないが、アホではないことは、すっかり透けてみえてしまっている。
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by spacedrama | 2008-09-24 14:19 | s×d2008 | Comments(0)
築港ARC、大和川レコードのアサダワタルです。

ミジンコターボさん「スーパーソニックジェットガール」。
正直、Space×Dramaの中で一番、微妙だった分、一番色々考えました。
微妙というのは「面白くない」のではなく、「面白い」部分と「面白くない」部分がこんなに脈絡なく分断されている感覚ってなんなんだ、ということです。


面白い部分は、役者の演技、これにつきます。
物語とはほとんど関係のない、役者のキャラだけで行き切るコント的な面白さ。
この、物語と個別のコント的展開の分断が、往年の吉本新喜劇のような面白さがありました。

面白くない部分は、その裏返し。
これは演劇なんだし、「田舎から女の子が出てきて…」みたいな基本的な物語も一応あるからなんとなくその物語がどうなるのかなーっていう期待を持って、観ておりましたが、その中身が、結局ほとんどありませんでした。なんてペラペラの物語なんだと。物語ではなく、コントや、バンド演奏のための、ただの前提にすぎないということ。
これって、演劇としてどうなんでしょうか?
「笑わせれればそれでいいやん!」ってことなのでしょうか?

これは別にミジンコターボさんのみの問題ではなく、Space×Drama全般観てて思ったのですが、物語と関係のないところで、ややコント的にエンターテイメント性を補強するって演出が、ことに増えている気がするのですが、これは功を奏すときもあるでしょうが、逆に言えば、それだけ、物語に対する掘り下げや言及に対する「さぼり」や「甘え」があるのではないのでしょうか?なんか、ごまかされている気がするのです。オーバーアクションな笑いや感動よりも、物語をしっかりみつめている静かな感動ももっと大事にしてほしいと思います。
しかしながら、今回はそもそも「ショートショート」と銘打たれているので、こういう意見そのものが的外れと言われてしまえば、それはそうなのかもしれませんが、一言伝えたかったので。
また、私は演劇人ではなく、そんなに恒日頃観劇をしている人間ではないので、片岡さんという劇団の主宰者さんがどんな方かは個人的に存知あげません。ゆえに、どうしても「あなたがハイロウズやブルーハーツが好きという個人的な想いをそんなに全面的に訴えられても…」という想いを劇中ずっと感じてしまいました。もうちょっとそういった自意識をうまく隠しつつも表出することができていれば、もっと気持ちよく一観客である私も演劇に没頭できたと思っております。

お疲れさまでした。
また機会があれば観させていただきます。
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by spacedrama | 2008-09-23 14:40 | s×d2008 | Comments(1)
築港ARC、大和川レコードのアサダワタルです。

せっかく、本若⇔ケービーズさん「かわうそくよう」の時はすかさず投稿したのに、今回はどえらく遅くなり、申し訳ありません。

特攻舞台Baku-団「病的船団」。
好き嫌い、趣味趣向どうこうは置いておいて、「舞台」としての完成度は高いと思います。しかし「物語」としての完成度は高くないと思います。

そこが「演劇」というメディアで表現されることの強みでもあり、同時に危険性でもあると思っております。箱の中身が非常に単純で画一化された物が入っていても、箱の装丁やその箱をプレゼントするときの渡し方などが巧みであれば、許されてしまう感じ。
これが社会的なテーマを持ちえる内容で、かつNPOと連携になったひとつの「運動」になってること考慮すると、なおさら、その危険性に目を向けざるをえません。

運動をする事自体は、いい事だと思っております。
少なくとも、NPOとコラボし、問題が起きている現場の感覚を表現に還元させようという心意気は、とても評価されるべきだと思います。
ただ、そのことを、「演劇」というカタチで発信するときに、予想以上のメッセージ性の強さを発揮してしまうことをどう考えるか。そこを十分に意識して、物語を作りこんでいただきたいと思います。
精社啓さんは、名前にもある通り「啓発」活動をされているNPOさんですよね。ということは、精社啓さんにとっては、今回のBaku-団さんとのコラボは、「演劇メディアによる啓発」活動の一環だと考えられる。そこをBaku-団さんというアーティスト集団が表現されるわけだから、当然、かなり精緻な物語の検証、創作作業が求められると思うのです。Baku-団さんが勝手にこの作品を演っているわけではなく、もうすでに外部社会と密接に繋がった表現スタイルをBaku-団さん自らが選んでしまっているわけですから。
そういう意味において、すこし物語の方向が画一化されすぎている、過剰に感動的に演出され過ぎていると感じたので、これに真に一喜一憂する観客の姿をみると、微笑ましい一面と同時に、やや「危険」と感じてしまうのです。

応援しております。
演劇界のみならず、あらゆる社会を巻き込んだ唯一無二の表現スタイルを築きあげてくださいね。
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by spacedrama | 2008-09-23 14:13 | s×d2008 | Comments(0)
劇評、遅れてすみません!
石田1967です!
それでは、始めさせて頂きます。


9月10日(水) 

ミジンコターボ 【スーパーソニックジェットガール】
http://www.mijinkoturbo.com/

シアトリカル應典院
19:30

脚本・演出/片岡百萬両

出演:後藤菜穂美 竜崎だいち 弘中恵莉菜 藍原こまき 川端優紀 Sun!! 片岡百萬両
永井悠造(隕石少年トースター) 山田将之




ミジンコターボの公演は2回目だが、いつも客入れの時からザワザワしている。
お客が一杯なのだ。
平日であるのにも関わらず、これだけの動員が出来るというのだ。
素直に凄い。
本当に凄い。
つまり確実な固定客がわんさか居るのである。
なるほど、そこかしこに散らばるエンターテイナーの匂いはとても気持ちの良いもの。
おまけに僕の隣に座った女子二人は初めてらしい・・・・・(聞き耳すみません・・・・)


本来の公演とは違い、【ショートショート】 と名打っているのは、肩の力を抜いたお話しという意味だろうけど、本公演とは違うハードルが設定されていた事に観てビックリ!


こういった作品を再演する可能性が低いかもしれないのでネタバレ的に言うと、主演5名がマジにバンド演奏を舞台上で行なうという素晴らしい舞台だった!
中でも【弘中恵莉菜】さんのドラムはリズムの刻み方が堂に入っていて痺れた!
これはもうキャスティングの成功であると同時に、俳優陣の質の高さを物語っている。


個人的に 【弘中恵莉菜】さんのオーバー演技はツボ!
そこにあのドラミングがかぶったので尊敬に値する!すげぇ、まじ半端ねぇよ!

後、【川端優紀】さんの暴走娘も、こにくら愛らしい!全力で「愛が欲しい!」のオーラが滲み出て・・・・・・・無邪気な子供みたいだった!

そして 【片岡百萬両】さんの相変わらずのフットワークの軽さよ!瞬発力が強く、それが持続するのが凄い。そして目を引いてしまう。とてつもない引力を持っておられる!大好きです!
(しかし驚いたのは最前列で観たからか、片岡さんが腕を突き出すところがあるのだが、指が震えていたのだ!こんなに凄い人でも指が震えるのかと心底驚いた。いや、あれは見間違いだったのかも・・・・・・?)

【藍原こまき】さんの綺羅美しいツンデレ(?)。いや、あれは、絶対あのキャラだけで一本できる!衣装がフリフリでめちゃカワユス!

【Sun!】さんのウナギを食う姿の何たる異星人のような(?)愛らしさ!指をわきわきさせるのだが、その姿の天晴れなわきわき!こっちもわきわきしたくなる!

【永井悠造】さん、大好きだこの方!どの作品に出ても独自に色んなカラーを出せる稀有な方!引き出しが多い役者は凄い。今まで10以上は舞台でお見かけしているのだが、出る度に色、角度を変えられ感心する!


それにしても後日・・・・・・メンバーの川端優紀 さんにお話が聞けたのだが、バンドメンバーはほとんどが初心者だったという事実。

演劇舞台というモニュメントに、真っ向勝負のバンド参戦!
その意気や良し!
そしてこの作品を作り上げる労力の並大抵でない努力の賜物はラストシーンに結実していた!
楽日ではないのに、やりきった感がミナギル、カーテンコールに楽日のような祭りの後の如き哀愁が漂っていた!!
この切なさこそROCKだ!
切なさを有する鉄人に幸あれ
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by spacedrama | 2008-09-23 00:40 | s×d2008 | Comments(1)

空気を思い出して

特攻舞台Baku-団の水本です。
今になり真に申し訳ないです。かわうそくようさんの劇評を上げさせて頂きます。
実は劇評そのものは劇場に入った時には書き上げており、今そのデータを抽出し、読みました。その時の舞台の空気を思い出しました。あぁ、劇評ブログっていいな、すごい有効じゃない、と思い、今ここにアップさせて頂きます。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
いつの間にか始まり、気がつけば終わっていた。

『かわうそくよう』である。


日常と虚構の合間をぬっていくような会話。
ただしかれた淡いカーペット。それが照明の未使用コードが無造作に配置された劇場との合間に曖昧な空間を成立させている。

劇場に足を踏み入れた瞬間から、そこには男がいた。
あまりにも穏やかな空気が、次第にそこにいるのが自然に感じさせる。
客誘導をするスタッフと同じトーンで突然、会話が始まる。
気がつけば、トビラは閉じられており、客電が落ちていた。
その作品への誘導は見事であった。
当然、客席は会話の中で物語の核であったり、テーマというものを見いだそうとするのだが、自然とそれをやめた。
それほど、よどみの無い空気が生まれていたのだ。
とにかく、ここで28歳の同級生達が祭りを盛り上げる為に話をしている事は分かる。
が、その祭りがそれぞれにどのような意味を持ち、人間関係がどう構築されているかはなかなか分からない。
ただ、その空気に身体を預けて耳を傾けるしか無い。
かといって、セリフがリアル(僕らの生きている日常的な言葉に近付いているかという点においてです)かといえば、必ずしもそうではない。
練り込まれた言葉とテンポが愛らしくも可笑しい。
そして、気付けば、舞台は登場人物の過去へ行き、前半の会話に隠れていた思惑(主人公との三角関係)が露呈する。
見事だった。
自ずと、それ以降のシーンでは、その3人の関係に目がいってしまう。
そして、気付けば、主人公は自分が無職であることを告げ、東京へいってしまう。
空気まで計算された良作であった。

が、それ故に、空気に介入する細かな点が気にかかった。
ラジオや電話のなる音が、宙釣りのスピーカーから聞こえていたのは、勿体ない気がした。
電話の相手の声が聞こえなくても、伝わったのではないだろうか?
それに、会話劇の特徴とも言えるのだろうが、同時多発的会話(複数の登場人物が同時に多箇所で喋る)が、特定のポイントのみに展開されているのも、唐突と感じてしまった。
また、演出上の狙いなのかもしれないが、客席が明るすぎる気がした。構造上、舞台の後ろに他の客の顔が見えてしまう。
練り込まれた空気感が、図らずもリラックスしすぎた観劇姿勢の観客を生み、ラストシーンでそれがチラチラと目に耳に耳に入ってしまったのは私には残念であった。この点はこうした会話劇を観る、客席側のマナーの向上もあるのだろうが。
特に僕が観に行った回は、ラストシーンで客席から大きな音が長時間し、舞台上への興味を大きくそがれてしまったのは残念だった。

ーーーーーーーーーーーーーー

と述べつつも、新鮮な観劇でした。
是非、今度やる時は本若さんの肉体的表現に岡野さんが乗っかって行くような芝居が観てみたいです!
いかがですか!?
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by spacedrama | 2008-09-22 18:37 | s×d2008 | Comments(2)

たとえばなし


えー、まだ書いてるんかい!
どぉも、ケービーズ・岡野です。
イヤイヤ書いてなくて終わるのはいかんなぁと、わたしもこんなに遅めですが。
喩え話は、一見タダのムダ話のようにみえて、意外な真実を映し出してくれる時があります。
ミジンコターボさんのこのお芝居をブログで書くのに、スポーツで喩えると何なんだろうか、そんなことを考えました。
というのも、スペドラ2008のオープニングアクトの突劇金魚さんを、ルチャ(ご存知ない方は、ざっくり空中殺法がいっぱい出てくるプロレス、とイメージしていただいて結構です)と比喩した書き込みに触発されてのことです。華麗さと明るさと猥雑さと艶めかしさを併せ持つサリngワールドを表すのに、まさにそのたとえは秀逸に思われました。
そして他の皆さん。以前の書き込みにも書いたように、Mayさんは高校野球。老練な指揮官の元、一度しか来ない夏を、泥臭く、熱く、謳歌するような作品には、まさにあの甲子園のマウンドとアルプスの熱気を感じたものです。
Baku-団さんは、喩えるならばバレーボールといったところでしょうか。それぞれの役割分担がしっかり見えて、ローテーションがはっきりしているところ、そんな色白マッチョな汗が、ぽいなあと。
ちなみにウチは囲碁を目指したのですが、いかがでしょう? …スポーツじゃないし★


で、ミジンコターボさん。あんまり巧い喩えが見つからず、テレビを見ていてハタと気づきました。「閉会式」でした。派手さとわかりやすさとエンターテイメント性をしっかり担保した作品は、片岡百萬両というエンターテイナーを軸に、見事に祭りの〆をしてくれたのかなと。

ケービーズ:岡野
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by spacedrama | 2008-09-22 09:31 | s×d2008 | Comments(1)
ama2k46です。
本当に吃驚するほど遅くなっていてスイマセン……。

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……しきらんのぉ。と、劇場を出て呟く。
「今日舞台上にあるのは、皆さんの生活に溢れている【日常】です」と、岡野真大は書いている。
しかし、《にちじょう》は、こんなにすっきりとしたかたちをしていない。
《にちじょう》は、始まりも終わりもなく、曖昧模糊としていて、切り取り得ない。
川の流れに両掌を突っ込んで水を掬い取るようにして--云うまでもなくそれはもう川ではない--、《にちじょう》から《日常》を仮構することで、私たちは辛うじて《日常》を生き始めることができる。ひとが《世界》に対して恐怖したり発狂したりする殆どの理由は、その操作ができなくなったときのことだ。だが、その《日常》でさえ、きょうの舞台の上に乗せられた「【日常】」に比べると、ものすごく未整理でグチャグチャしたもので、例えばそれは私たちの会話の大半が、私たちがすごく有意味な対話を行っていると実感していたとしても、実際に録音して聴きなおしてみると、その大半が意味を有する文としてはずいぶん曖昧だったり尻切れトンボだったり同じことの繰り返しだったり相手の発言とまったく関係のない言葉だったり、さらには、無意味な呻き声みたいなもので織り成されていることが判るだろう。《にちじょう》を《日常》にすげ替えるとき、そしてその実際に暮らしている《日常》を頭で理解するとき、私たちはそれぞれ、おびただしいノイズを切り棄てている。
だから、劇場に於いて舞台上に【日常】を顕現させるためには、ノイズの混沌である《にちじょう》の地平にまで立ち返り、其処から【日常】を発明する手続きをまず徹底して行わなければならない筈だ。発見ではない。発明である。つまり、演者も観客も《日常》を生きているからと云って、劇場の外に存在する何ものも当てにしてはいけない。あなたたちも《日常》を生きてるんだから此処での【日常】も判るでしょ?などと云うのは怠惰でしかない。舞台に【日常】を持ち込みたいなら、私たちの暮らしと少しの共通点も持たない宇宙人が、私たちの《にちじょう》を観察し、それを彼らのフレームで《日常》に再構築してみせるのと同じ手つきで、劇場のなかに【日常】を発明しなおさなければならない。それをしないで、劇場の外の《日常》を、舞台の上の【日常】へ無批判に流用しようとするなら、其処に顕われるものは、出来損ないの《日常》の紛い物か、そうでなければ、演劇臭を取り除こうとして、どうしようもなく演技の輪郭ばかりがマッキー極太でグリグリと強調された役者の名演技大パレードが退屈に並ぶことになるだろう。
さて、演劇には、岡野が語る通りで、「主人公が苦悩を語ったり、狂言回しが状況の解説をしてくれたり、叫んだり、踊ったり、闘ったり」するような物語や筋立ては、決して必要ではない。例えば小説のことを考えてみよう。小説には、老いた夫婦がもそもそと日々のくらしを暮らしているだけの、『かわうそくよう』以上に何も起こらないものだって幾らでもあるわけで、それらを読むことはひどく退屈かと云えば退屈なものもあるけれど、驚くほど面白いものもあり、では、それは際立っているのかと云えば、文体である。文体とは、話があちこちへ動くことではなくて、文章そのものの動きのことである。そして、演劇に於いて小説の文体にあたるものは何だろうかと考えると、それはやはり上演の空間と、そのなかのにある身体と、発声を含めた音の関係性の扱いになるのだろう。そして、この『かわうそくよう』の持っている演劇的な文体が、【日常】を劇場に召還するために有効に機能していたかと云えば、些か心許なかったと云わざるを得ない。《にちじょう》に降りることもできず、劇場の外から延びてきている《日常》や、「皆さんが何となくイメージされるであろう「お芝居らしいこと」」を切断することもできず、どっちつかずに終始したと思うのである。このどっちつかずの感じは、携帯電話から洩れ聞こえてくる声の演出に、最も端的であったと思う。
だが、『かわうそくよう』は、その試みが全く失敗した芝居ではなかった。飼い犬の頸につけられたリードのように劇場の外から延びてくる《日常》と結託するのでなく、《にちじょう》からじかに引き出されて、演劇と劇場を経由して発明された【日常】が、不意に立ち顕われた瞬間が確かに在ったからだ。それは、舞台上の人物たちが無言で柔軟体操を始めたときだ。私たちは他者をみるとき、必ず何らかの意味づけをして、云い換えればノイズを取り除いてから、それをみる。しかし、このとき舞台の上にいたのは、或る名前を持った俳優たちではなく、或る演劇の登場人物たちではなく、そのような意味づけを保留された、殆ど《にちじょう》そのものであるような人間の群れだった。これは偶然ではなく、役者たちの身体と岡野の演出が【日常】を生み出した結果だったろう。しかし残念だったのは、それが一時間半の演劇を通して、持続し得なかったことである。
ところで、本若の上島洋子と云う女優のおへそのかたちは、とても綺麗だった。
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by spacedrama | 2008-09-22 04:55 | s×d2008 | Comments(4)