space×drama2016の感想を様々な視点で載せていきます 。300文字以上の感想を各劇団が書いていきます。皆様もコメント欄に是非お書き下さい!


by spacedrama
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カテゴリ:無名劇団感想( 12 )

こんばんは!

まずは更新が遅れましたこと、お詫び申し上げます。申し訳ありません。

さて、space×drama2016大トリを務めます無名劇団!無名稿「機械」!!前年度の覇者が、我々チャレンジャーが温め温め温め、先輩劇団ステージタイガーさんがアっツアっツに沸騰させた應典院のステージをどのように切り込むのか!?とても楽しみに足を運びました!

6月10日15:00の回を拝見。

劇場に入って思うのは。美しい、とても、と。美術と光の効果で、前情報として聞いていた陰惨なイメージなんて想像できない。女優の出演が多いことと女性どうしのドロドロが劇中で描かれることも聞いていたので、白の布と美術相まって僕の頭のなかでは高校の昼休み、教室で揺れる白いカーテンが思い描かれました。

意図をくみ取った上で、良いことなのか良くないことなのかは分かりませんが劇全体の印象としてこの「美しい」という感想は崩れませんでした。

女性どうしが罵り合っていても、性的なシーンや暴力シーンがあろうとも、物語が悲劇へ進もうとも、現実の人間が持つ汚さや気持ち悪さが体感させられることはなく、役者が演じる登場人物でさえ小説に出てくる架空の街の架空の人物のような、読後清々しささえ感じさせられる、美しさで、僕の心はいっぱいでした。

僕の趣味と、好みと、重なりすぎていたのかもしれません。
靴、大好きですし。革、大好きですし!海沿いの街、大好きですし!!(実家が兵庫県の明石市なもんで)

登場人物一人一人にキチンと焦点を当てて大事にしている点も物凄く好感が持てます。

ですが逆に、

女性の社会での生き方であったり、被差別部落の扱い方に関しては僕の所属劇団の性質上、どうしても、どうしても、物足りなさを感じてしまいます。ですが、これは個人的なものなので、排除すれば、本当に洗練された良作であったなぁ、と心から思うのです。

我々遊劇舞台二月病にも言えることですが、劇団員の皆さんが更に歳を重ね、人生経験を経た後に、またこの作品と向き合った時どのように思い、その時またどのような作品になるのか、先の未来で、いつかお話したいなぁと僕は思ったのでした。

遊劇舞台二月病 松原佑次
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by spacedrama | 2016-06-22 21:04 | 無名劇団感想 | Comments(0)
劇団壱劇屋の大熊と申します。
ステージタイガーさんに続き、無名劇団「無名稿 機械」の感想を書かせて頂きます。

壱劇屋からは劇団員の竹村が客演させていただいて、本当に有難う御座いました。

バランスのとれてない舞台だった。
パラメータを表示したら項目毎に凄いばらついた点がつくだろう。
脚本はしっかりつくられてて強いし、空間演出は素敵だけど、動的な演出はいまいちだったり、舞台美術はシンプルかつ美しいのに音圧がペラペラだったり、出ている俳優も錬度がバラバラ。
なんというか作品を構成する要素がとても不安定だったのだが、僕はその不安定さを作品の内容と合わせて楽しむという、なんとも捻くれた見方をしていた。
観方は人それぞれなので許してほしい。
総じて面白かったと思っているので許してほしい。

しかし、ひとつ、明確に残念だったのは場内の案内を出演者がしていたこと。
別にそこにメタ要素も無いし、必然性ないし、演出的意図は感じなかった。
人手が足りないのは分かる。お金が無いのも分かる。
もし上記の理由で俳優が場内整理やスタッフ的前説をしていたのなら、そこは努力でなんとかなる範囲だったんじゃないだろうか。
僕は「劇団」というものと「スペドラ」に思い入れが強い方なので、協働プロデュース団体がこんな意識で公演をしているのが、本当に残念だったのだ。個人の感想だし想い入れからくる偏りもあるけど、でも、正直な気持ちである。
金を節約するのは大切だし、無駄な金を使うのは劇団運営する際に最悪だと思うので金を使わぬ気概は良い。
これ、席がカウンターしかないラーメン屋なら厨房とホールが一緒なのは分かる。
同じようにカフェ公演やイベント公演なら分かる。
でもこれはスペドラだ。10年続いた演劇祭だ。
その演劇祭の協働プロデュース公演枠を勝ち取った公演じゃないのか、そこそこの規模とお金と心意気が込められた公演じゃないのか。
そこはケチってはいけない労力だったろう。
俳優が直接接客するというサービスとか、なにか意図があって俳優が接客していたならすんません、上記の文章は戯言としてください。

なんでこんな感想を書いてしまったのだろうか。最早作品の感想じゃ無くてすみません。
ほんま、なんかもっと良いこと書けんのか俺は。
島原さん、中條さん、いつか飲みましょう。

以上感想でした。
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by spacedrama | 2016-06-19 01:41 | 無名劇団感想 | Comments(0)


横光利一の『機械』という題材を大胆に脚色し再構成した力作。象徴的な舞台装置と、ドラマ自体の観念的な設定。原作と創作をアレンジして、どこでもない、でもなんだか古めかしくて、懐かしい世界で、女たちの確執を描く。靴職人の工房が舞台となる。そこにやってきた新人とその工房の主人夫婦、先輩である職人。彼らの織りなす物語は緊張感のあるドラマを奏でる。

前回同様、原作を劇中劇として再構成してもよかったのだが、今回はさらに複雑に絡み合った構成にした。どこまでが今で、どこからが過去なのか。描かれる世界すら、明白な時制を持たない。今と過去がオリジナルと原作のはざまで交錯する。

この独特で独自のスタイルが効果的である、とは思わないけど、とても刺激的であることは確かだ。きっとこのスタイルを突き詰めていくことで見えてくるものがあるはずだ。できることなら、もう少し先を見ていきたい。

まだ、この作品では、それが明確にはなっていないと思う。作品は単独で完結するべきだろうけど、方法論としての試行錯誤も含めて劇団が進化していく姿を追うことができるのは楽しい。次回、3作目で彼らがどんな区切りをつけてくれるか。ぜひ目撃したい。
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by spacedrama | 2016-06-18 23:25 | 無名劇団感想 | Comments(0)
 まず美術がよい。

 センスのいいデザインの垂れ幕がシアトリカル應典院のそこそこの天井の高さをしっかり効果的に見せている。様々な高さに飾られライトアップされたハイヒールやブーツたち。一体この様々な靴がこれからどう意味付けされ100分後の幕切れには一体どんなものに見えているのか。開演前の舞台を眺めつつ非常に期待が高まった。

 結果を言えば、それらは物語上で特に何かに見立てられたり新鮮な意味が与えられることはなかった。残念に思ったが、それは勝手に盛り上がってしまったこっちの落ち度である。

 戯曲と演技について。

 舞台は現代の日本である。なのに、誰一人、現代口語でしゃべらない。

 パンフによればこの作品は横光利一の短編小説『機械』にインスパイアされ書かれたものだそうで、さらに今作のコンセプトは「文学作品×現代社会」というなかなかに格調高いものらしい。そういった雰囲気を出そうとしてか、非常に固い文語的な台詞回しを採用している。

 その固い台詞に若い劇団員たちはかなり苦労したと思われる。正直言って、そこでちゃんと生きて生活している人物に見えたかと言われれば答えはノーだ。演技が下手というよりも、このモロに書き言葉のセリフを自分の生理と結びつけて演じる方法がまだ確立されていないのだと思う。

 結果的に(演出家は意識的だったかも知れない)、登場人物たちは感情移入できない機械人形のような印象となった。
 
 『機械』というタイトルであるのでそのこと自体は趣向として悪くはない。

 しかし、今回の作品に限って言えばその見え方はこの戯曲の持っているテーマを大きくスポイルしていたのではないだろうか。

 次々と観客の前に並べられる児童虐待やいじめや部落差別、職場での嫉妬、スポーツの祭典の裏で進む美化という名の排斥。

 小さなアパートで陰鬱な日常を過ごす貧しい母子と国家規模の華やかな祭典であるオリンピックをつなぐものは、隠蔽された暴力だ。

 人が二人以上集まれば社会だとよく言うが、その社会は知らず知らず弱い者を生け贄にする構造を持ち始める。その自動機械のような構造に組み込まれることによってくすぶった暴力性を開花させることこそ人間という社会性動物の本質なのかも知れない、というような割とスケールの大きなテーマをこの戯曲は表現しようとしているのだと思う。

 もしそれが正しいとするなら、少なくとも何人かの登場人物は、愛すべきとまでは言わなくとも普通に笑ったり泣いたりする血の通った人物としてまずは描いておく必要があった。そして、その守るべき者も目指すべき夢もある彼らがそうとは意図せず自分たちが組み上げてしまった冷酷な暴力機械の構造に操られるままに、非人間的な行為に加担してしまう、あるいは犠牲となる、というやるせないイメージが本来のこの作品の姿だったのではないか。

 勝手な想像だが。

 というのも、客演の男性キャスト二人はしっかりとした演技でこの固い台詞群に見事に血肉を通わせており、彼らが傷つけられ損なわれていく様はちゃんと心に痛く、切実に感じることが出来たのだ。

 もしもこの作品が現代の大阪弁で書かれていたとしたら若い劇団員たちも、もっと自然に生活感や情感をもって演じることが出来たかも知れない。そしてその方が、この戯曲が意図した残酷をより生々しく表現できたのではないだろうか。

 演出について。

 歯車などの古めかしい機械の動きを役者が演じるアンサンブルが何度も繰り返される。なるほどタイトルが『機械』だけに。

 しかし、この作品に本当に必要だったのは原作の時代に合わせた古めかしい機械の表現ではなく、戯曲が意図的に描かなかった現代風俗の補完ではなかったかと思う。現代でもっともありふれた機械であるスマホを登場人物全員が常にいじっていれば(作家は超・嫌がっただろうが)観客はあるスリリングさを持ってこの作品を見ることが出来たと思う。

 冒頭の死体を見つけてのシーン、ト書きに書かれてなくともスマホで動画を撮りながら台本通りに『機械』からの引用された長セリフ「目が覚めると屋敷が死んでいた」をぼそぼそと呟いて物語を始めるとするならば、全体はどんな意味を付加されただろうか。

 児童虐待の母親の行為がすべて片手に持ったスマホでSNSに投稿を続けながらだったとしたらどういう印象になっただろうか。

 友人を生け贄にして虐められる側から虐める側の手先となった主人公がその友人にそのことを強く糾弾されているその間、ずっとLINEでのやり取りを止めなかったらどう見えただろうか。

 座長でもあるらしい演出の島原さんは、文章がとてもうまいのできっと(今は書いてなくともいつかは)戯曲を書く人なのだと思う。だからというわけでもないだろうが、実は中條くんと島原さんは目の付け所がとてもよく似ている。そのために、同じ要素をそれぞれの立場で強調しようとしていて、それが舞台上での不整合、あるいはメリハリの無さを産んでいたように思える。

 今作において、演出家は戯曲のもっている生真面目すぎる硬さを、そんなに肩肘張るなよと柔らかくほぐしてやることに専念すべきだった。その方法は書いた作家が泣きながら怒るくらいもっと大胆でいいし、役者や観客をおちょくるくらいもっとぶっ飛んでいても良かったのではないだろうか。

 影絵のシーンがとてもよかった。
 

オカモト國ヒコ
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by spacedrama | 2016-06-17 13:55 | 無名劇団感想 | Comments(0)
とても素晴らしい構成と率直な台詞はとてもバランスが良かった。
役者と演出の意識の統一感も素晴らしかった。
しかし、その両者の歯車は少し食い違っていたように思う。
これが、「バグになれ」と言う事なのだろうか。
僕の好みの問題だろうが、美しい見栄えの為の段取りに追われて、台詞が役者に馴染んでいない部分も見られたように思う。
これは皮産業を取り扱うという事に僕が敏感になり過ぎていた為であり、僕の落ち度であると思います。
本当に敏感になり過ぎた。申し訳ありません。
そのせいで本来なら気にしない所が目についてしまったのだが、とても良い芝居であったのは変わりがない。
とても美しい構図だったし、演者は物語を十分に体現していた。曼荼羅の美術も美しかったし、靴へのアプローチも感銘を受けた。
物語の終わりは冒頭に既に存在している。
たしかフランクハウザー氏が言っていた。それは僕も大事にしている。

冒頭の、靴磨きへのチップを盗んでしまった事が、主人公の歯車の居場所を決めてしまった構造が素晴らしい。
はした金だが大事な金である。その金をないがしろに扱ってしまっかが故に、後に自分達が稼いだ金もないがしろに失われていく。小さな歯車が取り返しのつかない未来を決定してしまう。
狂言廻しの役割を担う靴磨きが、その領分を超えて物語の心情に影響を与えてしまう。その底なしの善意からくる小さな罪が彼自身の幕を引いてしまう。狂言廻しを失った物語は崩壊への道を歩む。まさに機械仕掛けの神である。
機械仕掛けの神はたった一人の登場人物の死を生み出すが、それもこれから起こる大きな崩壊への歯車である。ミニマリズムなのかも知れない。
まさに見事である。

語弊が生まれる言葉をつかいます。

劇中での皮産業の取り扱いは穢れであった。
本来、この穢れは六芒星の結界により出入りはしない。つまりは結界内の地区に淀むものである。
しかし、靴工場の師匠は結界内に産業廃液という新たな穢れと扇動的な流行ニーズを招き入れてしまった。
それらは地区に淀んでいた穢れと混ざり合い、巻き上げてしまう。
結果、多くの悲劇を巻き起こす事になる5時46分へと帰結するのだか、まさかの1.17阪神淡路大震災である。
僕は、狭い地区に穢れと共に押し込められた彼らに申し訳なさを持っている。社会全体で共有すべきだと思うので、大きな崩壊への歯車が動き出した時に、少しばかりの爽快感と高揚感を持ってしまった。思い返すと自己嫌悪が噴出する。自分が醜く、情けなくて仕方がない。
その上での阪神淡路大震災である。
「そんな大きな天災までも僕たちの仕業にするのか」
と、思うと僕の内から沸き起こるのは押さえ切れない怒りと哀しさである。
目に映る舞台が美しい程に、虐げられ抑え付けられた彼らが不憫で仕方がない。醜い僕らの苦しい生き方は誰の目にも映らない。

これらはお芝居が良かったからこそ考えられる事であり、とても良い機会を得られた事を感謝しております。

遊劇舞台二月病
中川 しん


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by spacedrama | 2016-06-17 00:31 | 無名劇団感想 | Comments(0)
僕はこの作品のモチーフたる横光利一「機械」を恥ずかしながら知らず。
何の予備知識も持たず作品を観ました。

歪だなぁ、と思いながら観ていました。
セリフとセリフの合間に背後で動く俳優の身体と言葉。
妙にリズムにブレーキがかかる印象があり、乗っていきかけてはすかされる、という連続。
誰の何の話だったのか…夢だったのか幻だったのかわからなくなる…そんな100分間でした。

「機械」と名付けられてはいますが根底にあるものは女性達の嫉妬であったり焦燥。
肉体関係における対人の優劣。
でも、背後には曼荼羅の美術。

文学的知識も、宗教的概念も何も持たない無知な僕にはすべてのパーツが不協和であり、冒頭で言った通り歪な舞台に見えました。
けど、それが不快、というわけでなく。
スタイリッシュであり、先鋭的な表現として胸を打ちました。
オッシャレやなぁ、今風やなぁ、センスあるなぁ、と。
俳優の滑舌と身体能力をもっと上げていけば、もっと客席を席巻する表現ができるんやないでしょうか。

このブログを書くにあたり「機械」のあらすじをざっくり読んだんですけど、結構そのまんまオマージュしてる感じなんですね。
それが悪いというわけではなく。
是非、無名劇団の完全オリジナルが見たいなと思いました。
もっとむき出しの感情が見たいと思いました。
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by spacedrama | 2016-06-15 12:54 | 無名劇団感想 | Comments(0)
作家と演出家が別の人間がやることを方針としてあげている劇団はあまり多くない。
そして2人の性別が違うのというのは本当に少ない。
無名劇団は演出家の島原さんがさらに経験を積んでいけばまだまだ特異な劇団になっていきそうに思う。

今作を観た感想としてはやりたいことを全力でやりきる。しかしがむしゃらな勢いは見せずに上品に。
そのあらゆるやりたい手法がかみ合ってなかった。けどやりたいっていうことは重要で、統一感は今年の参加団体とはやっぱり違ったんじゃないかな。
これは劇団員との意識の共有、頼れる先輩客演の配し方が優れているからだと思いました。

だから、もうすでに色々な人にいわれて来たでしょうが、お客さんにもっと観やすい舞台にできなかったのか、もったいない。
舞台が上がっていない分、2列目以降のお客さんにはほとんど俳優の上半身あたりしか見えなかったんじゃないだろうか。
靴が重要な作品のはずなのに。
終演後、曼荼羅の美術の解説があり、写真撮影が可能だとのアナウンスを聞いて、なるほどお客さんが美術に近づいて写真が撮れるようにしたかったのかと思います。
曼荼羅アーティストとのコラボが重要だったのか、お客さんの目線が重要だったのか。

楽曲が結構、マチマチだったような印象があります。打ち込み感があってインダストリアルなものや、生楽器っぽいもので不穏な旋律のもや、ちょっとちぐはぐだったように思う。楽曲提供にクレジットがあるが、全曲そうなのか、一部なのか、どういう依頼でおこなわれたのか、気になる。

かと思えばかなりダンス的な要素のある演出があるが、振付のクレジットはない。シーンの展開に結構重要な要素だが、ここに他所からの力を入れることはなかったのかと。いや、劇団内で振りをつけれる人がいるからですかね。ならばその人はもっと俳優の動きをコントロールしないとアラの方が目立ってしまっていたように思う。


これらのことは些末な粗探しみたいだけど、比較的簡単に解決しそうな状態でかなりのノイズになっている。
これからの経験で引き算もして、ノイズキャンセリングをしてください。

作家の中条さんが舞台下からニヤニヤと、演出家の島原さんが歯ぎしりしているのをみているという構図が見えてくる。
この関係性を変えることが、関係性が変わっていくことが無名劇団がどうなっていくかの重要なポイントなんじゃないだろうか。

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by spacedrama | 2016-06-15 02:15 | 無名劇団感想 | Comments(0)
素晴らしかった。よく劇を批判するときに「破綻している」などと言うけれど、この作品には「破綻がなかった」。戯曲が優れていたのだろう。演出の交通整理も行き届いていて緩みがない。いくつかの役を一人が演じ分ける構造にも見事に役者たちが対応していた。

しかし、優れて文学性の高い戯曲というのは厄介なものでもある。私も劇作をやるが、中條さんの翻訳文体に近いセリフは、聴覚から入って、もう一度文字に変換せよと迫る印象。演出と劇作に齟齬がある、という意味ではなくてである。そもそも役者が演じたときに、個々の身体性よりも、硬質なセリフに劇が引っ張られる。

これまで観たspace×drama参加作品は、すべて劇のスタイルの中で文体が探られていた。中條さんは劇以前に文体意識の高い作家だ。私は憧れる。
しかし、少し嫉妬を交えて言えば「破綻」こそが演劇だとも云えるのだ。

横光利一「機械」を原作とするセンスがよい。ネームプレート会社が靴屋に変換され、当然のことながら被差別部落の問題を取り込む手際も心得ている。オリンピックと国家の暴力、それが夢と入れ子になって、ラストシーンでは原作へのリスペクトも忘れない。完ぺきだと思う。

完成されたものに立ち合うと、作り手側の惑いは何か知りたくなる。ないものねだりか。

無名劇団の力量なら、もっと無邪気なもので魅せることも出来るんじゃないかと妄想した。

ごめんなさい。作品に感服した故の心情吐露とご理解ください。
本当に素晴らしい作品でした。

岩崎正裕
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by spacedrama | 2016-06-15 00:47 | 無名劇団感想 | Comments(0)
燕が鳴いている、午前5時46分。朝がまた来る。
私たちは寝て、起きて、今日を始めなければならない。

どんな小さなことにも、まるで機械のような法則があって、この世界は形作られていく。
まるで私は機械の歯車のように、他の歯車と噛み合い回り続ける。
私の努力が報われなくとも、誰かに妬まれ蔑まれても、また反対に誰かを恨んだとしても、それはあらかじめ神に定められた「運命」というやつで、全ては予定調和。私は運命も私自身も変えることなどできない。

我々はこの社会を構築する歯車の一部。そしてそのスパイラルから逃れることは出来ず、そしてそれに抗うこともできない。ただ己の運命を受け止めること、そして精一杯生きて、死ぬこと。ただそれだけ。
そしてヤケ酒の果ての夢の中で私は蝿に励まされる。「応援してるよ、いつでもあんたのそばで」。
目覚めた時、また新たな絶望が待っているとしても。

簡単に言うとこんなテーマです。
ただ普通に言うと教訓じみた感じになるので、うちの脚本家中條は、今回横光利一の「機械」という作品をモチーフに作品を書きました。
無名劇団の陰鬱文学シリーズ第二弾です。

第一弾、「無名稿 あまがさ」という作品で、前年度のスペースドラマの優秀劇団に選出していただきまして、こちらは川端康成の「雨傘」という作品をモチーフにした、陰鬱なテラスハウスみたいな話でした。

今回の第二弾は陰鬱度がより一層、なおかつわけのわからなさもより一層、熱量もより一層でお送りいたしました。私的には、「無名稿 あまがさ」よりも面白いと思っています。

そもそもの横光利一の「機械」がわけのわからなさMAXの作品でして、簡単にそれを説明しますと下記の通りです。ウィキペディア参照。
『機械』(きかい)は、横光利一の短編小説。新手法を駆使した実験小説で、文学的独創性を確立し注目された横光利一の代表的作品である。あるネームプレート製作所で働く「私」の心理を通して、そこで起った作業員同士の疑心暗鬼と諍いから重大な結末に至るまでの経過を独白する物語。段落や句読点のきわめて少ない独特のメカニックな文体で、機械のように連動する複雑な人間心理の絡み合いが精緻に描かれ、一つの抽象的な「詩的宇宙」が形成されている。一人称の「私」以外の「四人称」の「私」の視点を用いて、新しく人物を動かし進める可能の世界を実現しようと試みた実験小説である。

横光利一「機械」の一部を紹介。
「翌日、主人が私たちの仕上げた製品の代金を帰り道ですべて落とし紛失してしまった。私たちは、疲れが一気に出て動けないほどだった。軽部が酒を飲もうと言い出して、その夜3人は仕事場で車座になって酒を飲んだ。目が覚めると屋敷が死んでいた。重クロム酸アンモニアの溶液を水と間違えて土瓶の口から飲んだのだった。疑われたのは軽部だった。しかし、全く私が屋敷を殺さなかったとどうして断言できよう。私はもう私が分からなくなって来た。私はただ近づいて来る機械の鋭い先尖がじりじり私を狙っているのを感じるだけだ。誰かもう私に代って私を裁いてくれ。私が何をして来たかそんなことを私に聞いたって私の知っていよう筈がないのだから。」


この作品に何を見たかというと、「スパイラル」でして、誰かを妬み、恨む気持ち、その負のスパイラルは例え環境を変えようとも繰り返す。機械のように噛み合わせられる。
ということでして、今回の公演の大きい枠組みはこの「機械」の構成をほぼそのまま踏襲しています。そこに現代社会の要素と、横光利一の別作品「蝿」の要素を足しました。
横光利一の「機械」の設定と大きく変わっているとすれば、ネームプレート工場が皮作りの靴工房になっている点、そして横光利一の「機械」が男だらけなのに対し、私らの「機械」は女だらけだったという点。

前者は、靴というのはこの世で生きる人間その人そのものを現すのに都合がいいといいますか、靴というのが自分のしがらみだとして、そしてそれを脱ぎ捨てることは出来ず、靴を履き変え、日常役割を演じ分けて生きる人間をあらわしたいと思ったこと、また、皮作りの靴というのはすなわち死んだ動物の皮から出来ていて、私達はそれを履いて生きるというか、命という大きい枠組みの中でのスパイラルとも引っ掛けています。
そして横光利一ということで「色」というテーマにもこだわりました。
舞台装置、衣装、照明を含めて色のあるものは配置せず、唯一色鮮やかなのは、無数に積み上げられている靴のみという演出でいきました。

後者は、我々が女ばっかりの劇団なので致し方ないといいますか、おそらく腐女子ウケを考えたらオール男子の方が固定ファン2倍くらいになったと思うのですが、そこは本当もう致し方ない。女ですから。
ですが、女ばっかりで繰り広げる陰惨ワールドの方がより真に迫るというか、女同士のぶん殴り合い、グリグリやるいじめ、ほぼ絶叫に近い罵り合い、これは現在の関西小劇場界で私らにしか出来ない世界だったのではないかと思っています。
観たお客さんにドン引きしていただくことを目標に頑張りました。
そしてフルスイングで行き過ぎて、ほぼ全員の声が千秋楽では枯れてました、ごめんなさい。

うちは、脚本が中條、演出が私島原という構成で行ってます。つまり価値観も異なるわけで、中條とはよく喧嘩しますし、ト書きとか見たら舞台上で実現不可能なことばっかり自由に書いてて殺意湧くこともままあります。
私の演出に対して「アンサンブルにこだわりすぎて嫌」と終わってもなお中條は言ってましたが、それはホント譲れないので「うるせぇ私の世界観だ」と思いながら構築していきました。
でもこの2人体制がいい時もあって、お互いに「それは間違っている」と言い合うことで、客観視できるというか、冷静に見れる時もあります。
劇団のメリットとして、これからも冷静に、でも情熱的に作品を作りながら、邁進して行きたいと思います。

無名劇団 演出 島原夏海

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by spacedrama | 2016-06-14 21:49 | 無名劇団感想 | Comments(0)
6/12(日)15:00の回を観劇。

横光利一の「機械」をモチーフにした作品。オーダーメイドの靴職人カラスバの工房を舞台に女同士の確執を見せる会話劇。

カラスバの妻スミレの紹介で弟子入りしたスオウ(私)は、独特の嗅覚をカラスバに見出されるが、スオウを気に入らない兄弟子のアサギ(軽部)から嫌がらせや暴行を受ける。アサギは虐待された過去があり、師匠とその妻子に家族への憧れを見ていた。スオウはアサギのいじめを受け流す。学生時代いじめを受けていたスオウは友人に矛先を変えることで生き抜いてきた過去があった。カラスバの寵愛を受けたスオウは、染料の原料がゴミであり、もうすぐ底を尽きるという事実を打ち明けられる。
クチナシ(屋敷)という新人が入ってくる。スオウとアサギの関係が、今度はスオウとクチナシとの関係に重なり繰り返される。産業スパイとして、入ってはいけない染料の秘密が隠された部屋へ入ったクチナシに対してアサギが暴行を加える。スオウはなぜか笑ってしまう。
カラスバは入金を落としてしまったという。自棄になったスオウとアサギとクチナシはやけ酒を飲み、夜を明かす。翌日の5:46、クチナシが死んでいる。誰が殺したか。冒頭で群唱されたセリフが繰り返され、スオウはアサギと自身の意識が信じられなくなる。

会話自体はテンポよく進むが、物語は緩慢なテンポで、だんだんと暗く閉塞的な雰囲気になっていく。あがいても抜け出せぬ沼へ気づかぬうちに入っていくような印象を観客に与える。スオウの心情や懊悩を潤滑油として流しながら、登場人物たちが歯車のように軋み、繰り返されていく苦悩と業の物語を機械的に淡々と進める。

作家の現代社会に対する思いが多く感じられた。零細企業がものづくりの技術を評価され大量受注を受けるも失敗する流れ、その途中に起こる現場スタッフの軋轢としがらみ、炭鉱のカナリアの話、染色の原料がゴミ(おそらく産廃の化学薬品が思わぬ化学反応をしたのか)であること、スポーツの祭典によってネズミというブルーカラー労働者が排除される様などからは、大量消費社会における排他的・均質化された社会への警鐘を感じた。

また、もずの早贄の話や立場が入れ替わり繰り返される暴力は生来的差別感情や戦争歴史の構造を、クチナシが阪神大震災発生時刻の5:46に死んでいることなどは不条理な破滅をそれぞれ暗喩しているように思えた。現代社会の生命と尊厳に対する価値観の揺らぎを表しているように感じられた物語だった。

カメハウスや冷凍ウサギにもこのような暗喩表現を見たが、無名劇団の作劇は方向性が統一されていること、また例え方が構造的に提示されていることで、主張をより強く感じられた。その表面を覆う物語の流れも丁寧で、構成力があると思う。

分からなかったり取りこぼしたりしている暗喩もあるかもしれない。植物性染料の色になぞられたそれぞれの登場人物名も何か(その花言葉など)意味があるのかもしれない。ネームプレート工場から靴職人へ舞台を変えたことなど、靴には最大の侮辱や性的暴行の暗喩もあり、女性キャストにしたことも含め女性蔑視批判的な意味合いもあったのかもしれない。とかくいろいろと想起するのが楽しい。

一部、セリフと展開に飛躍が激しく、唐突で説得力に欠けると感じる瞬間もあった。だが、観劇後に原作を斜め読みすると、そう感じた場面は原作に拠っているセリフや展開のところだった。本作品は戯曲という読み物として読み応えが合ったように思える。

ただ、物語のシーンひとつひとつには全体的に求心力の無さや説得力の乏しさを感じたことは否めない。これは過去の文学作品との現代観客のマッチングもあるが、俳優、演出的な面に要因があると思う。

登場人物の心情表現にメリハリが少なく、平坦な印象を受けるシーンがいくらか見られた。主演、客演陣以外の俳優の拙さが目立つ。モブシーンや心情表現を表す身体表現など、訓練を重ねていることは伝わるのだが、精錬されていないように感じた。セリフと心情の合致がしっくり来ておらず、棒読みではないのだが、その状況のその人物ならこうするだろうという言動に説得力が無いように感じる演技があった。目線の送り方、指先や歩み、姿勢の動かし方/とめ方、表情の不随意筋などの身体も含め、セリフの滑舌やセリフの大小・高低・強弱・速度などに違和感が多く、演技の細かな部分が作られていないという印象を持った。

この戯曲はリアリティのある演技、細かい心情を観客に想像させる演技が、暴力の危うさや女性同士の確執のサスペンス感をより際立たせ、より刺激的になると思う。演者がそれぞれの立場での深刻なリアリティ(常に自然体とは限らず、時に適切なデフォルメや記号化も必要になるようなリアリティ)を出すことで、その人物群の佇まいが緊迫した空気を舞台上に作る。本作品でひりついた空気、嫌悪感をもっともっと味わいたかった。シリアスで暴力的な雰囲気が必要な場面が虚構に見えた時点で、観客は無名稿 機械の世界から醒めて、應典院で無名劇団の俳優さん覚えたセリフを言っているという認識に戻ってしまう。

演出的要素としては、モブの使い方・身体表現について物語への過剰な働きかけ、もしくは型としてのみの表現があり、効果がうまく発揮できていない部分があったように思えた。物語と密接にリンクしている感じが薄く感じられた。モブは舞台上の上下に待機し工場の雰囲気や状況を表す動き・雑踏・スオウの心情を表す動きなどをし、動作としては正解で見た目に楽しい雰囲気を出しているのだが、本来、観客に引き起こされる感情や感じを芽生えさせ得なかったように感じた。

おそらく、物語の主体にモブが働きかけをしていなかった/していたが見えにくかったことが原因ではないかと思う。スオウが苦しんでいる動きをするならば、リアルでもその動きや感じでもって、スオウに何らかの働きかけ(プレッシャーをかける)を十分にし、それに対するスオウの反応で観客に情感を伝えてほしかった。スオウというアンプを使わず、単なる視覚的なレイヤーになっているように思えた。シーンと心情の流れに対して、動きがやや唐突な感じもしたので観客への心情的導入(入りの間などタイミング、前シーンの雰囲気作り)がうまくいっていないこともあったかもしれない。

工場の部品や機器の動きと音を表す発声と動作も気になった。これから起こる工房での人間関係や登場人物の先行きに不穏な雰囲気を漂わせていて、舞台表現としておもしろいのだが、この発声と動作のタイミングが観客の目と耳を奪いがちで、物語の話者の邪魔をしていたように感じてしまった。タイミングや動きが精錬されれば(気配を消すタイミングが話者とうまくセッションできれば)、登場人物たちに心理的に圧力をかける不気味な機械的存在をうまく表せる表現だと思う。

人間や社会が機械的な無機質で周期的なものへ侵食されていく様を描いている物語だから、逆にもっと邪魔をしてもよいのかもしれない。その場合に観客へ物語がどこまで伝わるかは別問題なので、バランスの問題になるとも思うが。

舞台中央奥の吊り幕にあった美術の歯車は象徴的で、なぜか変に美しく感じた。だがこの下で行われるシルエットで手を動かす妖艶な動きや、上下に塔のように置かれた靴置きから靴を出し入れしたり、靴を落としたりする集団身体表現が、作品構成の要素としての意味は理解できるのだが、上記のモブシーンと同様の印象を受けた。本来会話部分のリズムのアクセントとして刺激を与えるシーンだと思うのだが、会話シーンの静かな衝撃よりも迫力の乏しいものと感じてしまった。重大なモチーフを持った幕の中で行われる行為はより象徴的になってほしい。

その他、場面転換、座り芝居の見せ方、シルエットの見せ方含め、恣意的な演出が多く感じられた。だが、ある意味で、この脚本という論理に対して自由に歯向かっている様を想像するだに、その姿は凛々しく、まさにこの脚本に出てくる登場人物たちのようでもあり、そう考えると好感は持てる。メタな見方だが。

照明は素朴で最小限のもの、音響は寒色なもので、それぞれ余計なものをそぎ落とし、物語に寄り添っていて好感を持った。小道具は靴にこだわりを持っていたようでポップでかわいいものもあった。だが、その分、物語のリアリティは薄まった。お金がマイムだったのは気になった。衣装はモノトーンをメインにやや現代風のフォルムで抽象風だったが、美術の材木感との調和が取れていない気がした。

総じて脚本と演出・俳優の主張がアンバランスな感じはあった。脚本は暗喩や構造が好きな観客によい材料を与えつつ流れは分かりやすい、演出はポップな部分があり見た目に楽しいところもある。この組み合わせはよい化学反応を起こす場合があるが、本作品は違和感を覚えるところが多く、ややケンカしているところもあったように思える。だがそれはある意味で、この劇団にしか出せない可能性を内包している。この戯曲の内容でポップな要素が万が一強くなってもおもしろい。きっとバランスのよい落としどころがあり、それがハマれば独特の表現が生まれるのではないかと思えた。女性同士の差別感情や嫌悪感情が応酬する陰鬱な内容の中にふと見える普通のかわいさを素直に表現できる劇団は少ない。


baghdad café
泉 寛介
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by spacedrama | 2016-06-14 14:00 | 無名劇団感想 | Comments(0)