space×drama2016の感想を様々な視点で載せていきます 。300文字以上の感想を各劇団が書いていきます。皆様もコメント欄に是非お書き下さい!


by spacedrama
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カテゴリ:s×d2011( 72 )

コトリ会議さんの「桃の花を飾る」を観ました。
Micro To Macro の石井です。

劇評というより感想のようなものになってしまいます・・。

美しい舞台美術。
観る前からいろんな想像をかき立てられます。

桃の花を飾るお話でした。
その桃の花を飾る花瓶が舞台中央奥にひっそり置かれている。

物語は、借金だらけの駄目男の夫と小説家の妻の破綻しかけの夫婦の物語。
と、もうひとつ、その妻の書く小説の中に出てくる登場人物である夫婦の物語。ダブルプロットで進むこの物語をのっけから犬と猫がガイド役とて出てきて、この物語はこんなお話なんだよと分かりやすく説明してくれます。

私も幾つかのプロットで話を進めるような物語を書くので、のっけから全部説明してしまうというオープニングは、はじめから種明かしするようなものなので、えーとは思ったのですが、それはそれでなんて潔いのだろうと思いました。

山本氏の書く物語は台詞が面白いです。目を瞑って台詞だけ聴いていても、その言葉から滲み出るニュアンスと、それが客席に運ばれるテンポの心地さは、今まで観たどの作品と同じく見事だなぁと感じました。可愛くてでもとても可笑しい。時にちょっと毒もある。イテテ・・ってなります。

この物語は夫婦の物語。
借金まみれの夫と小説家の妻が実存の夫婦で、妻が病弱過ぎて、セックスができない夫婦が小説の中の虚構の夫婦。
これは、山本氏の仕掛けなのか、私のとても個人的な感覚なのか、小説の中の虚構の夫婦の方がとてもリアルに感じ、実存の夫婦の方にあまり現実味を感じませんでした。なんででしょう。

借金取りが異常に親切過ぎて自分の臓器まで提供してしまうとことか、面白過ぎたんですが、ブッ飛んでるところとか、架空の夫婦の方の、夫のセックスだけの相手が妻の妹だったりするところの生々しさだったりとかでしょうか。この二つの世界は最後には、ひとつになって、ぐちゃりと混じり合ってひとつの世界になっていきますが、それも現実と虚構の隙間を薄ら笑っている山本氏の全て作戦どおりなのかな・・と感じたりもしました。


花瓶は割られ、夫婦の大切な家は失くなってしまう。でも、最後に物語の中の夫婦に子供が宿ります。そして、桃の花は飾られる。どちらの夫婦も、いやきっとそれは現実とか虚構とか関係なく、晒し合って、傷つけあって、でもお互いを想い対峙した夫婦というものが、きっと幸せになると感じさせるラストシーンの群唱。実は私には、ここらへんではもう、なにがなんやら分からんくらいになっていたのですが、そこには、なんだか新しい命と、そこから始まる幸福感みたいなのがどんどん広がっていて、それだけで、山本氏の放つ世界観に今回もどっぷりと魅せらたなぁと感じたのでした。
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by spacedrama | 2011-09-19 03:39 | s×d2011 | Comments(0)
Micro To Macro様より依頼を頂き劇評を書かせていただきます、ステージタイガーの虎本と申します。
コトリ会議様の「桃の花を飾る」を観劇させていただきました。

この作品は、借金に追われながら生活する夫婦と、その妻が執筆する、妻の体調からSEXが出来ない夫婦の世界を行き来する物語です。
それを繋げるのが、冒頭からメタ的に登場する犬と猫。そして、桃の花と、飾る花瓶。

既に多くの方が指摘される通り、山本氏の紡ぎだすコトバは耳障りがよく、気持ちよいリズムと共に、いつの間にかその不条理な世界に浸らせてしまうのです。
次々と俳優の口から溢れ出すコトバが本当に心地よく、実社会の夫婦が喧嘩をするシーンなど、喧嘩とは思えぬコトバの羅列ぶりに、拍手が起きました。

ゆえにラスト10分程のドタバタとした転換の嵐と若干のアクションシーン、郡唱に対し違和感を感じました。
今までの会話での面白さを全て捨てたような音響照明効果は何故なのだろう。
アンバランスなのです。
そのアンバランスさ、唐突さすら笑いなのかと。
しかして笑いだろうが何だろうが、それを突き抜ける程の力がまだない。
残念ながら、この座組の俳優達にはアクションや早い展開で魅せるだけの身体能力が伴っていないように感じました。
個々の癖や個性といったものはよく引き出せていたように感じましたがそれぞれ集団での動きや理解に乏しい印象があります。
100人の観客の前で身体を制止させ、見栄を切る能力に欠けています。
演出がそういった手法を軽視していないのであれば、もっとその演出に向いた俳優をチョイスするか、確固たる演技手法を統一すべきだと思います。

身体という点では、濱本さんとピンク地底人2号さんの夫婦は立ち方、歩き方まで雰囲気が相似しており、いい組み合わせだと思いました。

ステージタイガー
虎本剛
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by spacedrama | 2011-09-15 18:08 | s×d2011 | Comments(0)
コレクトエリット、べかおです。

よろしくお願いします。


役者たちは、けっこう必要以上の声のボリュームで台詞を放ちます。またそれに加えて、普段はなかなか扱わないであろう分量の台詞が与えられてもいる。

これは山本さんが意図的に、役者たちに余裕ある演技をさせないためにそうしているのではないかと思われました。

日常ではそうそう持ち得ないテンションを舞台上に現出させるために、それを狙ってやっているのではないかと。

実際はわかりません。あくまでも印象でしかないです。
というわけで、以下に展開する感想は僕の勝手な妄想にすぎません。

さてさて。

長大な台詞とギリギリまで張り上げる声、を求められた役者たちの目標は至極シンプルになります。台詞をしっかりと覚えること。それを淀みなくフルボリュームで語り尽くすこと。

これは、練習量がモノを言うというか、おそらくそんなに大きくは迷うことなく、本番に向かっていけるでしょう。

しかし、これでは、僕には陸上競技のようにも感じられてしまう。しかも、個々人で金メダルを争っているわけでも世界記録という明確な数字を競っているわけでもないので、演劇においては少々ミスを恐れてしまったり笑いを取れるかどうかへの意識などが先に立ってしまって、本当に問われるべき、緊張感にやや欠けてしまうのではないかと思ってしまうのです。

しかも、しっかりと練習を重ねてこれていれば、本番における全力疾走はただただ気持ちよさや開放感や達成感に、中途半端にたどり着きやすくなってしまう。

これは、なかなか恐ろしいことです。

役者たちが気持ちよくなるために演劇はあるのではないと僕は信じているからです。

実際のコトリ会議の作品がどうだったのか、それは僕には厳密にはわかりません。ただ、そんなことを考えながら観ていたというだけの話です。

語られる台詞の面白さやなんともいえない展開を見せるおはなしは、とても魅力的なだけに、気になったことを、ひとつだけ例にあげて、このブログを終わります。

物語の中の小説世界に出てくる夫婦についてです。

とても愛し合っている夫婦だけれど、妻は身体が弱く、セックスは妻の調子が良い時だけ、ましてや妊娠の可能性がある中出しセックスは決して許されないという葛藤を二人は、それぞれの仕方で抱えている。

ある日、実は病院からNGが出ているにもかかわらず、今日は出来る日よと夫の前で妻がはしゃぎ倒すという切ないシーンがありました。現実を知る夫は、冷たい態度で妻をあしらいます。ここがわからなかったのです。

妻がはしゃぎ倒す、痛々しさも伴った姿を、呆然と見つめる夫の視線が本当に無機質なものであったことは、そのあと、病院からの真実を知っていると告白する夫の台詞で解消されたような気になります。

しかし、またそのあと、妻のいないところで夫が、中出しセックスが許されない苦しさという言葉を借りて、妻への愛を吐露したとき、僕にはどうもその愛とやらがただの台詞による説明にすぎない気がして、違和感が残りました。

それでは、ラスト、奇跡的に妊娠した妻に「おめでとう」と声をかける夫の言葉は他人事の祝福にすぎなくなってしまうのではないか、と思うのです。

実際はわかりません。
ただ僕は、そのようなことを考えながら、客席に座っていました。
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by spacedrama | 2011-09-12 23:57 | s×d2011 | Comments(0)
コレクトエリット、べかおです。

よろしくお願いします。

Mayを観るのは、3回目でした。今回、僕は今までMayの作劇を誤解していたのかもしれないな、と思ったのです。劇評なんてものより、そのことについて、語りたいと思いました。

前置きが続いてしまいますが、完成度が高いとか、よどみない安定感とか、そんなことより、金さんはクレバー、というか、いや、金さんの知性とか品性みたいなものが作品を貫いていることが何より重要なのだと思います。

Mayの作品には「語るべきことがある」というような、イメージのようなものが、そもそも観客が誤解してしまう要因なのでしょうか。在日コリアンが在日コリアンの話をする、ということが取り立てて特別なことでもないはずだし、もっと観るべきものがあるだろう、というか。それだったら、ドキュメントやドキュメンタリーでいいわけだし。

いや、そんなことがいいたいのではないのです。

僕はやはり、劇場にわざわざ足を運ぶという行為が、何になるのか、そのことこそが問われるべきじゃないか、と思っているのです。

これをいいだすと、しかし、キリがなくなります。

観客の求めるものが重要とは考えていません。それはビジネスの話であって、語弊を恐れずにいえば、芸術の可能性とはあまり関係がないはずだ、とおもうからです。

いや、やっぱり、そんなことがいいたいのではないのです。

今回、金さん自身による、前説がありました。観客からのレスポンスを直接求めるべく、金さんは全身全霊で劇場にいるように感じられました。そして、劇場は独特の一体感に包まれました。この、乗れようが乗れまいが、劇場を包む一体感は、直接に足を運び入れないかぎり味わえないものです。

そして、そうやって始まる、底辺に流れるものは生々しくも、寓話のようにも僕には感じられるのですが、ある普遍性をもった恋物語が、趣向を凝らした語り口で語られ、その語りに目を凝らし耳を澄ます観客たちを、最後は労うように演奏があり一緒に舞台にも上げて踊り、何かを祝福するように幕は降りていきます。

この時間。

この時間が劇場で待っているということが何よりの魅力なのではないかと思いました。

個人的には、朝鮮訛り(?)の日本語がたまらなく心地よかったです。何なんでしょう、ある種のストレスでもあるはずですが、なんともいえない快楽を味わっていました。そういった細かいディテールを裏打つ技術の高さには、劇団が積み上げてきた時間が確かにあるはずで、そのことに、なにか、人間として勇気をもらい、僕は劇場をあとにしました。
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by spacedrama | 2011-09-11 23:42 | s×d2011 | Comments(0)
観劇させていただきました。
勝山修平です。
宜しくお願い致します。

★☆★

開演から、犬と猫がオーソドックスに語尾に
「ワン」と「ニャン」をつけながら
舞台を進行していきました。
ひとつは夫婦の話。
借金で悩んでいるような
借金をきっかけにした「自分」と「相手」に
悩んでいるような
要は目先のことに悩んでいる夫婦の話。
今の自分の感情にどこまでも正直な夫婦の話。

もうひとつの話は、その婦人が書いている
小説の中の話。
小説の中では、
重い病気のせいで夫と満足にSEXできない妻と
妻とSEXできないので妻の妹とSEXしてる夫と
姉の夫とSEXしてる妹が登場します。

物語は犬と猫によって進行しますが
今思えば進行ではなく
お客に、我々に向かっての「報告」だったと
思っています。

何の報告だったのか?

犬と猫は進行しながら
「見るべきことはわたしらじゃなくて人間だからね」と
劇中何度か口にします。
セリフはだいぶちがうけどそういったニュアンスのことを
何度か口にします。

何故?
犬と猫は人間の物語の進行に於いて「だけ」なら
必ずとも必要ではないのです。
そして犬と猫はいつも明るく
何なら歌ったりもして
自己主張をいいだけしてから
「見るべきことは人間だ」と言うのです。

そして犬と猫は人間の物語に干渉しています。
現実の僕らがそうであるように借金苦の夫婦は犬を飼っていて
小説の中では病弱の妻が召喚獣として犬と猫を召喚します。

見るべきことは人間なのに。犬と猫は。

だから自然と強制的に約1時間50分
犬と猫の目を通して
始終老後のプランを立てるなんていうことを
考えもしないであろう登場人物たちの
浅ましさや愚かさや愛しさを観ました。

それはきっと今まで山本正典が描いてきた
おかしく必死で響きがよろしい日本語を使う世界を
客席に届けるフィルターとして
「今」必要なファクターだったのではないか。

コトリ会議の世界は自由に圧迫されていて
どうしようもなく協調性が欠けています。
生々しいことがきちんと生々しく描かれないところに
生々しさを感じます。
子供が描いた動物の死体を見たような。
かわいいヌイグルミの腹が割かれて綿が出ているような。
却って生々しいのです。

さてそれをどこまで山本正典が意識的に描いているかはわかりませんが、
少しづつ彼は無意識に感じとってもらいたいものを意識的に描いている
ように思います。

それはとてもすごいこと。
でも、コトリ初期に見られた、表現しがたい稚拙な表現から来る
必死さとの軋みから出た「ゆがみ」はもう見れないのだろうか。
だってもう彼は自分の何が良く何が足りていないのかを
常考えているであろう作家なのだから。すごい。
だから、でも、少し寂しくも思います。
「SEX」がなんであるか理解せずに「お医者さんごっこ」を
していた子供時代にはもう戻れないように。

でもいつか、それすら意識的に表現できるようになるのだろうか。
なるのだろうと確信しています。

だから僕はしつこく求め、花瓶に桃の花を飾ってでも催促してやろうと
思います。割られるんでしょうけど。
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by spacedrama | 2011-09-11 10:00 | s×d2011 | Comments(0)
ピンク地底人3号さんに依頼されて劇評ブログを書かせていただいてます。
桐子カヲルです。
初日にコトリ会議さんの「桃の花を飾る」を観劇しました。

◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

舞台はとあるおうちのダイニングルームの一室。
センター奥には、分かりやすく桃の花を飾る花壜。
舞台の奥の上のほう、影ではたはたとはためく布が妙な感覚をよびさます。風のイメージがダイレクトに伝わるし舞台上に人以外で動くものがあるっていうのはとても新鮮。

舞台美術はちょっと脳みその中っぽかった。箱庭っぽかった。
照明がカラフルだったり、シンプルだったり。シルエットになったり。
音楽は自然に世界に溶け込み、台詞とともに心地よいリズムを刻んで。目にも鮮やかで芝居にも優しく、楽しめる素敵な舞台風景。

話が進むうちにどんどんお家が小さくなっていくようなイメージがわいてきて、「うたかたの日々」を思いだした。

◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉

舞台を見終わってすぐは、カタチにならない、コトバにならない
もやもやのカタマリが出来る。
アンケートを眺めて、そんな論理的に出来てない。こんなときに文字なんか書けないって思う。
だからいつもよくわからない絵をかいて帰ってしまうことになる。

そういう舞台の共通点は、なんかひっかかる舞台。
滑らかで、スマートだと、舞台上で完結してしまう。
おかしな人や、困った状況なことにスポットを当てているのに、
スマートな感動作品になったら、それは作品全体がウソになっちゃう。
おかしな人は日常でだって、観てるだけでおもしろいんだもん。
それだけでもうThat's Entertainment。
だからおかしな人は、舞台上でますますおかしくなっていいじゃない。
ストーリーも、その人の脳内なんだから、おかしくて当然じゃない。
周囲に??ってならせて当然じゃない。

どうしようもなくダメな旦那がバカほど好きな瓜恵。
バカ旦那のバカ男代表、夫の安心。
バカ夫婦がほおっておけない、バカほど人のいい借金取り。

そのバカな瓜恵が書く小説の中の登場人物達。
身体がどうしようもなく弱くて旦那が大好きなのにセックス出来ないつむぐ。
そんなつむぐの身体を守りたいがために、代理でその妹とセックスする意味不明な夫のしずむ。
つむぐを守るために公認代理セフレなつむぐの妹、わにこ。

このバカで、どうしようもない人間達を見守り、振り回されても、死んじゃっても明るく、笑いながら世界を照らす、ペット代表の召喚獣、犬と猫。

呆れながらも憎めない、愛おしい世界。
まあこんな世界に生きているよね、と妙に納得。

◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉

舞台上には、いろんな音と、言葉と、声と、色があります。
多種多様、千差万別、言葉をいろんな角度から、眺められます。
言葉を眺めるってことは、人のココロをかいま見られるってことです。
ト書きや説明、心情描写が台詞に張り巡らされても、その言葉が嫌味にならないのは言葉選びと表現方法がぴったりしているからだと思います。

瓜恵の心情を吐露する長台詞は絶品でした。
ダメ女とダメ男のどうしようもない繋がりが鮮やかに目に浮かび上がります。
個人的お気に入りは、わにこちゃんのガンダム長台詞です。
ああそうそう、片思いの時って、こういう妄想しちゃいますね~って納得。
そしてストーリーの核になっているしずむくんのウィスパーボイスで語られるつむぐへの愛の長台詞。中2男子並みのエロだけど、とっても可愛いです。

人間が今ココに生まれて、何十年か生きて、或る人が口にする言葉を、100%理解出来るなんて事不可能に近い。
それでも100%伝えようとするには使えるものはなんでも使う意気込みが大切なんだと改めて感じたのデス。

◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉

ストーリーを背負う二組の夫婦はこのさい好いんです。
人を巻込んでも、迷惑をかけても答えを出す人たちなんです。
形見の花壜を奪っても自分の幸せを優先出来る人たちなんです。

一番やっかいなのは、度が過ぎていい人な、わにこちゃんと徳寺さんです。

この二人がいい人仮面を被るから、物語の不幸度が増すんです。
人の幸せに気を取られて自分が犠牲になるのは、偽善で不幸です。
徳寺さんもわにこちゃんも自分で分かっています。
それでも、ひとりで居るよりはましなので、そこに居ついてしまうのです。
悲劇のヒロインと、偽善者はけっこう居心地いいもんです。
このままだと不幸まっしぐらなのに。

でも、幸せになりたいなら、自分が主人公になるのです。
私が作家なら、スピンオフで「わにこちゃんと徳寺さんの幸福論」という作品を書きます。
ただ、所詮スピンオフはやっぱりスピンオフ。
そして人生の作家は自分しかいない。

幸せは、自分のために、自分で選び、つかみ取るもので。
「一緒に誰かと」って言うのが、大切な訳です。
その誰かを掴むために、みんなバカほど必死なわけです。
誰かを掴みたいなら、自分でなんとかするしかないのです。
勿論、ひとりで生きて行くのが幸せな人もいます。
でも、わにこちゃんと徳寺さんは違います。

だから、頑張れ、わにこちゃん、徳寺さん。

これからのお話は自分が主人公の世界に生きてくれることを切に願います。

◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉

犬と猫が、始めに言っています。
人を1時間50分で語る事なんてできないって。
犬と猫が、始めと結びに言っています。
これはいままでもここにあり、これからもずっと続くお話だって。
そして、つむぐが最初に3回も言っています。
「見つめあうってなんだろう」
いままでは相手に向き合わなかった、向き合わなくても生きてゆけたんです。

これはきっととてもシンプルなお話。
そして身近で、大切な相手と自分のホントに、向き合う事が大切だと気づいた、社会的にはとるにたらない事でも一個人にはとても大きなお話なのです。そして、これから全て繋がっていくのです。

ますます希薄になっているひとと人との繋がり。
大切な事は知っている筈なのに、時とともに薄れていっている。
そういう実感が社会の、そこかしこにあるもんだから、この作品がうまれるわけです。
その一歩目、はじまりのお話なのです。

社会的に最小単位であった、夫婦という関係性。
子供が生まれて、家族になって、家族が集まって、地域が出来て、社会が出来ます。
今となれば核家族、夫婦どころか、ひとり世帯が多数派となっています。
ペットの需要もますます増えて行くと思います。

たとえそんな世の中でも、誰かと繋がっていたいという想いは、
きっといつの時代も変わらないです。

合掌。ごちそうさまでした。

Coquecal
きりこかをる
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by spacedrama | 2011-09-10 23:45 | s×d2011 | Comments(0)
Mayさんの「夜にだって月はあるから」を観ました。
Micro To Macro の石井です。

私は、これまでMayさんの作品を何作品も観ていまして、今まで観たどの作品においても、自らの民族と歴史をテーマとした一貫した揺るぎない作品への想いに感銘を受けてきました。

今回の作品でも、その期待は裏切られることはありませんでした。

日本に憧れてやってくる二人の少年。
一人は主人公チュンテ。一人はその親友だ。

しかし、その憧れの国、日本は破れ散り、日本の敗戦と共に、祖国は分断され故郷を失ってしまう。帰りたくても帰れない辛さ。残してきた家族への想い。

この時代を懸命に生き、翻弄された一人の少年チュンテの青年になるまでが、丁寧に描かれている。

しかし、この物語の素晴らしさは、その時代であるとか、生きる人々の葛藤を描きながらも、ストーリーが、若き青年の淡い恋心を描いた物語、きっとラブストーリーとして観れるところにあると思う。

チュンテは、同じ祖国の女性たちばかりの劇団の演出家となり、彼女らと「お芝居」をつくっていくことになる。そして役者の一人の少女に恋をする。

祖国の分断と喪失というこの凄まじい時代を描きながら、そんな時代であっても、人間は人間を好きになる、人は人に何かを伝えようと表現する。いやそんな時代だからこそか。それをとても愛らしく人間くさく表現されているところが素晴らしいと思ったのです。
テーマの部分だけをグイと押し出されるより、この恋物語があるからこそ、その背景に流れる事件や時代を描いた大きなテーマがより深く伝わってきたように思います。

演出家チュンテが、舞台袖で本番を見守るシーンにはとても美しく感動的でした。愛にあふれたシーンでありました。私も劇中劇、特に芝居をしている人たちや映画をつくっている人たちなどの姿がとても愛おしくて、自分の作品にもよく描いてしまうことがあるんですが、このシーンは観ていて唸ってしまう程でした。

でも、更に感じたのは、演出というのは、いったん幕があがってしまうと何もできなくて、あとは役者を観ているだけしかできないようなところがあると思うのですが、袖から舞台を覗く演出チュンテが、この時代という大きな舞台に横たわり、ただ観ていることしかできなかったという一人の青年の震える背中にも見えました。私の勝手な解釈です。

金さんの作品を観るといつも「人間」を感じます。民族や歴史という流れる血と生きる土地と、その経過という人間の持ってるもの、辿るもの、全てを内包したものがそこにはいっぱい詰まっているからだと思うのですが、でも最終的にはいつも、そういうことを全部すっとばして、そこにいる「人間」の可笑しさと愛だけが残る感じがします。そして最後は絶対笑ってしまいます。

それが一番素晴らしいところだと思います。
それが金さんなんだなと思います。
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by spacedrama | 2011-09-10 03:06 | s×d2011 | Comments(0)
Micro To Macroさん「ハネモノ/ブルー・ヘブン」を観ました。
Mayの金哲義です。

今回は劇評ブログというよりも感想ブログを書きたいと思います。

何故感想ブログなのかと言いますと、今回感じた事はあくまで個人的感想であり、
作品に漂う世界観が、やはりどうしても作家で演出家で出演者でもあられる石井さん御本人と離せないからです。
この作品が誰が観てもそうなっているのではありません。
けど、やはり初めて出会って、酒を呑み、時折ご挨拶を交わし、
そして数ヶ月間この演劇祭で言葉を交わしますと、人を知ってしまい、観る時に影響してしまいます。
全ての演劇作品がそうとは言いません。
「こいつ嫌いやわぁ」
と思っても作品は抜群に面白かったり、どんなに知り合いでも作品を独立して観てしまえる事は多々あります。

何が観劇に正しいのか。
こんなにも文化が乱立している今、そんな事に答はありません。
それでも石井さんの作品は石井節に溢れていて、
それは作品、そして出演者に至るまで隅々まで染み渡っています。

全員が石井さんに惚れて石井さんの書かれた文字を言葉として命を添えて放出する。
それはとても好感の持てる空間でありました。

さて。ここより全くの個人的感想で、あくまで僕のみの感覚です。

実は長年演劇をしていながら、演劇の客席を好きになれません。
元来映画を観て育ったために、食べ物ダメ、飲み物ダメ、
会場の決まりに従って、の心理的閉鎖空間が20年近く経った今でも慣れなくて、
それは自分達が上演する時にも観客席に与える閉塞感が時には罪悪感となります。
そんな中で僕はある日ライブハウスの空間を教えて頂き、とても安堵感を覚えました。
お客さんのノリの良さ、ステージとのラインの無さ。
もちろん日本ではまだまだノリは悪く、外国ならば発狂するような空間がほとんどだと聞きます。
何度もライブハウスに立たせて頂き、しかし演劇の方での活動が多いのに、
観客席との隔たりは大きくなる一方でした。
そしてある日ライブハウスに立ちながら「ここならばマダン劇をできる」と思いました。
そして他劇団の代表を誘い、マダン劇を始めました。
会場と一致した時には酒を配り、食べ物を配り、写真撮影を許可し、ヤジを求めました。
長年自分の中に渦巻いていたストレスが一瞬で消え、新しい楽しさを知りました。

もちろん「演劇はラインを引いて観たい」というお客様もたくさんいらっしゃり、
僕達がマダン劇をする事を嫌う方もいらっしゃいます。
僕にとって、ライブハウスと音楽の空間は、舞台と観客席とのラインを砕いてくれたものであり、
第二の表現の始まりでもありました。
故に音楽とバンドは砕いてくれるものであり、ついついバンドの人を見ると過剰な期待をしてしまいます。
バンドと演劇の融合はなかなか難しく、ほとんど成功例を見た事がありません。
保守的な隔たりは未だに存在します。
だから、今回のMicMacさんの作品の空間に入った時、
心理的閉鎖空間の中で聴くバンドマン達の音楽は、より一層遠くに感じてしまい、
まるでカツカレーのカツ抜きのような味でした。
もちろん劇団側が要求した一線ではありません。
そこを砕けなかった僕個人もやはり閉鎖空間に甘んじているのです。
そして、繰り返しますが、一つフィルターを通して演劇を観劇したい人もたくさんいらっしゃるのです。

何かが正しくて何かが間違っているのではありません。
あくまで僕個人の感想です。

作品の空間は、本当に活きた空間でした。
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by spacedrama | 2011-09-09 22:20 | s×d2011 | Comments(0)
 これは、この『ハネモノ/ブルー・ヘブン』という芝居だけがそうであるというのではないのだが、やはり気になったので書いておく。
 親からひどい虐待(暴力を振るう親と、暴力が子供に向かうことを止めることができない親がセットの場合もある)を受けて、心身に大きな傷を受けてしまった子供がいる。成長したのちもその所為で、他人とのコミュニケーションから決定的に疎外されてしまう。このような人物が芝居のなかで大きな役割を与えられていることが、先日の「激団しろっとそん」の『彼女に鎌を下ろすとき。』もそうだったが、ちょっと多すぎやしないか? 
 なるほど、幼児虐待が私たちの社会が抱える深刻な問題であることは間違いないし、それを演劇が素材とすることはままあるだろう。
 しかしその際に、登場人物の造型を含め、演劇の組立てが、社会学や心理学の知見をそのままなぞって行わねばならないなんてことはない。
 さらに、この人物の劇中での行動を駆動しているのが、幼少期に受けた心傷に求められるとしてしまう場合、これは人物の造型であるというよりむしろ、使い勝手のよい小道具の設定である。
 つまり、初期設定の目盛りの操作(どれくらいのひどい虐待を受けたのか)によって、出力される結果(どれくらいコミュニケーションから疎外されているか、どのような通常でない行動を示すか)が作劇に於いて幾らでも調節可能なものとなる。これは、盗まれた財布をみつけて褒められたいから、まずじぶんで財布を盗るというのと、まるで同じだと思うのだ。
 「彼にはこんなトラウマがあるから彼はこんな行動をするのです」というのは、人間の理解として、あまりに一面的かつ安易に過ぎないか? 
 演劇は、人間なるものをよりよく理解するためのモデルを、心理学や社会学などからそのまま借りてくるのではなく(慌ててつけくわえるが、決してそれらを勉強しないで済ませてよいというのではない)、それがどんなに困難でも、演劇自身で、演劇なりの人間理解のモデルをつくらなければならないはずである。
 演劇がそのことを、演劇独自の人間の理解を深め、表現することを諦めてしまうのなら、演劇が、今現在を生きている生身の人間によって、同じように生きている生身の人間を対手として演じられることの意味の大半は失われるのではないか?

 さて、この芝居の舞台上には、普通の俳優たちとは別に、舞台後方に生のバンドが据えられている。彼らは劇中で「ハネモンズ」というバンドになったり、登場人物の心臓の音を模した効果音や、劇伴を演奏したりする。
 だが、舞台の上のバンドがそれ以上の何かに「化ける」驚きを味わうことは最後までなかった(それはとても残念なことだった)。バンドはずっと置きっぱなしで、音が必要なときに、機能として使われるだけである。
 演劇の舞台の上に乗っているかぎり、それがどんな些細な小道具であっても、ひとりの役者と同じように、しっかりと適切な演出が施されていなければならないだろう。
 しかし、この芝居のバンドに対して、バンドが音を出さないときも演劇の舞台の上に乗っている意味、どうして録音ではなくその場でBGMや効果音が演奏されなければならないのかなどの根本をよくよく考え抜いた上で、適切な演出が施されているとは到底思えなかった。
 なるほど、「ハネモンズ」のつくる音楽が芝居の物語を駆動する要素のひとつになっているので、「ハネモンズ」を劇中に登場させるために、実際のバンドが舞台上に要請されたのだろう。
 また、舞台の上にずっとバンドがいるという風景は、一瞬の驚きを喚起するだろう。
 しかし、それはあっという間に見慣れたものになってしまう。
 例え、あのバンドがどれほど素晴らしいバンドであったとしても(実際、演奏はかなり優れていたと思う)、ただ置きっぱなしにしているだけでは、見物の興味を繋ぎ得ることはできない。
 それは見物が怠惰なのではなく、演出の仕事が不充分だからである。
 入念な演出を施したからと云って、演出や役者の意図が見物へ寸分の狂いもなく伝わるなんてことはないだろうが、おざなりな演出が決して驚きを創造し得ないこともまた、云うまでもないだろう。
 そして、そのことと関係して、演出が充分機能していなかったのは、生バンドの扱いだけでなく、劇中での楽曲の使い方にも感じた。
 登場人物たちは「ハネモンズ」の曲が大好きであるという設定であり、彼らはたびたび「ハネモンズ」の曲はとても素晴らしいと口々に語り合う。
 しかし、私は実際に演奏されるそれを聴いても、まるでよいと思うことができなかった。先程も書いたが、バンドの演奏技術そのものはかなり高い。
 では、私が「ハネモンズ」の音楽をまるでよいと思えなかったのは、私の音楽の趣味が、この芝居の作者のそれと違っていたからだろうか?
 音楽の趣味が、この芝居の作り手と私のそれが違っているというのは、なるほどそうかも知れない。ちなみに、私がいちばん好きな現役のミュージシャンは、ヘルムート・ラッヘンマンである。
 それでは、私がとてもよいと思っている楽曲(または、私たちの誰もがよく知っていて、とても愛されている、いわゆる「名曲」というような楽曲でも構わない)が劇中で使われていたとしよう。そして、私が「すごく感動した!」と述べたとする。
 このとき、考えられることはふたつあり、ひとつは、その芝居に感動しているのではなく、じぶんが好きな楽曲に感動している場合である。もうひとつは、確かによく知っていて好きな曲ではあるのだが、その演劇のなかでとても巧みに融合(または、異化)されて使われており、そのコンテクストで聴くからこその感動や発見があった場合だろう。
 前者は単純に、音楽のポテンシャルに演劇のそれが敗けた、ということである。
 後者では、演劇の側が企んだ演出こそが、音楽のポテンシャルをよりよく引きだした、いや、発明したのだと云ってしまってよいだろう。
 どんなに陳腐でつまらないと見做されている楽曲であっても、或る演劇の上演に際して、考え抜かれた演出の成果として使われることで、その楽曲のポテンシャルそのものが開発されることは、充分にあり得るだろうから。
 だからこそ、この芝居の作り手とは音楽の趣味が違うので、この芝居で感動することができなかったというような言明は、殆ど意味がない。
 それは、音楽の趣味が一緒ならば感動することができるということであり、けっきょく、この芝居ではなく音楽によって感動が引き起こされているのだから。
 音楽の趣味がまるで違っていても、それでも演劇として素晴らしいということは、充分可能なはずである。
 だから、「趣味の問題」で免罪してしまうのはいけない。
 演出がなっていなかったと云うべきなのである。
 「ぼくが好きだった音楽だからきみもきっと好きだよ!」なんてことが許されるのは、互いに依存ぎみの若いカップルくらいのものである。

 もうひとつ、劇中でたびたび主要なモチーフとして扱われる「写真」に就いて、短く書いて終わりたいと思う。
 写真とはまず、人間の手や眼ではなく機械(カメラ)を経由して確保される、或る瞬間のイメージの凝集だと云えるだろうが、この芝居では、それが総て「おはなし」に還元されてしまう。
 人間への配慮など一切皆無な性質(人間なんていなくても、何かのはずみでボタンが押されればイメージは切り取られてしまう)が写真の根本には必ず含まれており、それが例えば絵画などと写真が異なる面白い点であるはずなのだが、この芝居では、このような写真の独自性は脇に追いやられ、お湯をかけて戻す乾燥食品みたいに、写真は、それが撮影された情況の説明のために使われるだけなのだ。
 この芝居で写真は、音楽と同じくらい、もしくはそれ以上に大切なモチーフのはずである。
 実際、この芝居の作り手が、「確かに撮影されたがカメラから取り出されず現像されないフィルムにはいったい何が写っているのか、いないのか?」によって、劇のサスペンスを駆動させはじめるのは面白いし、写真家の父親が投身自殺する瞬間を、その幼い子供が母の腕のなかから父親のカメラで撮ったという、強烈なイメージもしっかり掴んでいる。
 にもかかわらず、この芝居の演出家は、写真の独自性に演劇の側からきちんと向き合って考え抜くのではなく、それを芝居の進行に都合のよい、ただの「おはなし」再生装置におとしめてしまう。
 せっかく掴んだ強いイメージも、安易な謎解きの結末というかたちで、あっけなく発散されてしまう。
 結局この芝居の演出は、音楽や写真だけでなく、登場人物の身体性や台詞などその他の総てを、「おはなし」を進行させたり解説するための道具として使いすぎているのである。
 演劇のいちばんの面白さは、「おはなし」を運搬するための「イレモノ」としてではない。 (西田博至)
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by spacedrama | 2011-09-09 09:01 | s×d2011 | Comments(0)
 激団しろっとそんの『彼女に鎌を下ろすとき。』には、「future」編と「friend」編があり、この順番で、同じ日に続けて両方をみた。
 「future」編でも「friend」編でも、冒頭には俳優たちが出てきて、これから芝居が始まること、そのための諸注意などを見物に向かって述べる。
 このとき、俳優たちは役を演じていない俳優自身としてではなく、既に、演じられている役柄の人物として、言葉を発する。
 その後、登場人物や、芝居を駆動させるエピソード(卒業式の直後、学校の前で交通事故に遭遇して突然死んでしまった女の子がいて、彼女はそのまま、学校から出られない幽霊になってしまう。彼女をきちんと成仏させるために、下級生の三人組が、彼女と将来を誓った彼氏の行方を捜す)、さらに、幽霊の先輩を成仏させたのち、後輩たち自身も卒業式の日を迎えて……などの諸々の大きなフレームは、「future」編も「friend」編も同じだった(ただし、台詞やシチュエーションなどは、かなり細かく変えられていた)。
 さて、「future」編では、芝居の主役である後輩たちが、この高校の学生として経験したあれこれを総て、学校のなかにきちんと置いて出ることで終る。幽霊の後輩たちが過不足なしに学校から卒業ができたことで、それが同時に芝居そのものの終りと結びついているのが「future」編なのである。
 それに対して「friend」編は云わば、幽霊の後輩たちが、きちんと卒業することに失敗する芝居である。後輩たちは、学生として経験したあれこれを、うまく整理したり消化したりして学校に置いて出てくることができないで、そのまま抱え込んだまま、時間切れで学校を出ることになってしまうのである。
つまり、残余なしで卒業を済ませてしまうことと芝居の終りが重なっている「future」編に対して、卒業という終りの儀式を終えたのにまだ荷物を抱えたままでいる「friend」編は、うまく終れなかったことをどう処理するのかに就いて、何らかのケリをつけなければ、芝居そのものも終りにすることができないのである。
 では、どういうふうに「friend」編は終るのか? 
 それは、私が「future」編より「friend」編のほうが断然よいと思った理由でもあるのだが、その他のどんな方法でもなく、演劇を選ぶことによって終るのである。
 「future」編と「friend」編の比較を、少し別の角度から述べてみよう。
 成仏した先輩へできるだけ派手で大きな別れの挨拶を送って、どちらにも未練が残らないように、積極的に忘却することで終るのが「future」編であるが、「friend」編は、いつまでも先輩を忘れないでいることを選んで終る。
 先輩自身を含め、まわりの彼ら皆が望んで先輩は成仏していったのだから、彼女が此岸にいることはできなくなった。しかし、だからと云って、確かに幽霊の先輩がいたことを、卒業式をきっかけに、水へ流すようにさっぱりと忘れてしまうことや、時間をかけてゆっくりと忘れてゆくということを、「friend」編の後輩たちは、よく肯んじることができない。
 それだから彼らは、成仏していった先輩とは別に、なんどでも先輩を呼び返して、先輩が成仏するまでの間、どんなふうにして彼らと関わり、どんなことが起きて、結論したのかを定着させることを選ぶのだ。つまり、幽霊の先輩と出会ってからじぶんたちの卒業式までの総てを芝居にして、演じることを決めるのである。
 そうして、「friend」編は、「future」編とは異なり、再び芝居の冒頭に於ける、劇中の登場人物としての挨拶へと接続されることで、演劇による演劇を選ぶまでの演劇として、あちこちいびつだか、勢いがあって気持ちのよい丸をひとつ描いて終る。
 芝居が始まる前に、劇中の人物としてではなく俳優たちがゲームの音楽にあわせてダンスを踊るパフォーマンスが置かれていた。顔の表情で何とか取り繕ってみせようとしているが、踊る身体を構成する技術と演出の未熟さの所為で、彼らの身体のままならなさばかりが強調されてしまうダンスだった。まさに、「踊ってみた」というふうなのである。
 「friend」編を見終わったとき、これは「踊ってみた」ならぬ「演ってみた」なのではないかと思った。
 どうして彼らがダンスや他の表現ではなく演劇を選んだのかが、まるで不明瞭なままだったからだ。
 まだ若い彼らの鬱屈や感性をのびのびと発揮するというだけなら、それが演劇でなければならない理由は全くない(「表現を選ぶことに大層な理由なんて必要なの?」という反論があるかも知れない。もちろん、どの表現をどんなふうに誰が選んでも構わない。熟慮の結果だろうが偶然だろうが、そんなことも何でも構わない。だが、いちど「それ」を選んでしまった限り、どうして他の何かではなく「それ」で表現をするのかを、作り手は、きちんと答える用意をしていなければならないだろうと私は考える)。
 しかし「friend」編では、彼らがどうして演劇でなければならないのかが、この『彼女に鎌を下ろすとき。』という芝居を丸ごとつかって、かろうじて、回答することができていたと思う。
 なるほど、粗捜しをすれば欠陥は幾らでも出てくるだろう。しかし、批評とは、一般に考えられているようなダメ出しや粗捜しのための道具ではない。
 『彼女に鎌を下ろすとき。』の「future」編を上演することで、激団しろっとそんは、演劇に救われたと思う。 (西田博至)
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by spacedrama | 2011-09-09 08:32 | s×d2011 | Comments(1)