space×drama2016の感想を様々な視点で載せていきます 。300文字以上の感想を各劇団が書いていきます。皆様もコメント欄に是非お書き下さい!


by spacedrama
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カテゴリ:遊劇舞台二月病感想( 10 )

舞台監督CQ/ツカモトオサムです。
s×dの2本目は二月病が連合赤軍を描く。
実名で実在の人物を登場させ、現実に起きた事件を舞台で描くのは本当に難しい。
一連の全共闘の争いの研究者は非常に多く、連合赤軍に関する文献も数え切れないほど存在し、これを題材にした映像作品や舞台作品も相当数発表されている。
新たに同テーマの作品を創る時、先駆者の残した膨大な量の資料が足枷となり、資料を調べるだけで時間がどんどん費やされる。
資料が多いのは幸いだが、過ぎたるは及ばざるが如しで、膨大な資料の中に紛れた本当に知りたい情報を探し出す苦労は並大抵ではない。
加えて当人または関係者や家族が存命なら、悪戯に誰かを傷付けないように細部にまで配慮が必要となる。
60年安保から70年安保へと、延々と連なる一連の騒動の一部分だけを描きたくても、事件のあらましを知らぬ観劇者に背景となる歴史の説明は不可欠で、私より年配の方ならば記憶に残る凄惨で衝撃的な一連の事件をある程度記憶しているので歴史の反芻がもどかしく感じてしまう。
実話の舞台化は本当に難しい。
さて、本作は二月病がどんな集団であるかを表す上で、意図せず最も二月病らしい作品となった。
この作品の演出の要は、この舞台の中央奥に据えられた人型の使い方に尽きる。
偶然か意図してか、ご本尊の阿弥陀如来と背中合わせに設えた、如何にも標的と言わんばかりに吊るされて力無く辛うじて生きている人の形をした贄。
閉ざされた劇空間の中、演技者に代わり総括の名を借りた人の悪しき暴力の全てを、総括の名の下に行われた常軌を逸した組織の不条理を、平等で幸福な理想の社会を夢見ながら理不尽にも同志に殺される無念を、一身に受け止める孤高の存在で、モノ言わぬ代弁者を舞台の中心に据える。
この演出を思い付いた時点で、演出の8割が完成したと言える。
当初のプランでは、人型が受けた暴力が、円形に配された装置に縛られた演技者に跳ね返り、その痛みは更に外周円で傍観する観劇者に伝わる構造であった筈だ。
だが彼らは本当に優しくて、他人の痛みを自身の痛みとして感じ始める、居たたまれないほどに。
真剣に取り組めば取り組むほど、組織の理不尽に悩み、暴力に脅え、稽古が進めば進むほど、暴力に対する嫌悪は進む。
暴力を憎悪し、暴力を描く表現の代弁者として仮定した筈の人型に対する暴力すら許せなくなり、ついには暴力の表現に暴力を用いず、暴力を非暴力で描くことがギリギリの選択となって行く。
実際に誰も傷つけないための演出プランが、演出車自身を傷つけてしまう。
暴力を用いずに演出したい。
その願いは演技者にも染み渡り、共通意識として劇空間を包容する。
自己矛盾を孕んだ演出プランは、どこまでも痛々しく、限りなく優しい。
図らずも二月病の方向性と精神性が強く窺える代表作の一つとなった。
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by spacedrama | 2016-06-11 04:15 | 遊劇舞台二月病感想 | Comments(0)
とても遅い感想になってしまい申し訳ございません…

観ている途中に気付いたのですが、自分にとって実際にあった出来事に基づいた演劇、というものを観るのは初めての体験でした。
漫画や映画が、リアリティがあるというわけでは全く無いですが、演劇という目の前で繰り広げられる虚構はやはり虚構としての面構えが大きく、こういったあくまで史実に則った丁寧な物語を”お芝居”としてすることの難しさを感じました。
例えば、映画であるならばドキュメンタリー風といった様々な手法があるのでしょうが、演劇においてはどうなのでしょうか。
そんなことを考えながら、決して構造として奇をてらわずに、等身大の物語として描いていた今回の二月病さんのやり方もひとつの正解だろうと、感じました。

ただ、やはりその中で残念だったのが、もっと人形を殴ってくれたらということです。こう思ってしまうのはなぜなのでしょうか。たぶんもっとこの物語をきらいになりたかったのだと思います。本当のことというのは、やっぱりいかにも本当のことで、自分は嫌いです。連合赤軍、山岳ベース、総括、リンチ、殺人、そんな本当にあった・起きたことは痛ましく嫌なことです。それをもっと嫌いになりたかった。だからこそもっと暴力に徹して欲しかったのだと思いました。
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by spacedrama | 2016-06-03 02:17 | 遊劇舞台二月病感想 | Comments(0)
第碌回公演「LEFT〜榛名ベース到れる〜」
無事、終演いたしました。
皆様への感謝の気持ちが絶えません。
本当にありがとうございました。
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僕の感想の前にあらすじと、製作意図を

【あらすじ】
進藤隆三郎は活動家であった。彼女の持原好子は、芸者をしており、身売りされてきた女の子たちの生き方の改善を訴えていた。友や先輩も各々、大事な思想があり、夢があった。
進藤は、仲間の想いが形になる事を望んでいた。
制限されていく活動の中、真面目な革命左派との共闘が始まる。
拠点基地となる榛名ベースではメンバーの思想がぶつかり合い、活発な議論が交わされた。しかし、次第に、自己の共産主義化という思想の弾圧が始まり、内部での権力争いが起こるようになる。
そして思想の弾圧は直接的な暴力となり、ついには死者を出してしまう。
山岳ベースという閉鎖空間の中で手法と目的が入り乱れ自己を見失う者が続出する中、進藤には譲れないものがあり、それを必死に守ろうとし、守れなかった。
進藤は自らの命をも失ってしまったが、彼の必死の抵抗が残したものを誰が受け取れるのだろうか。

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【製作意図】
昨年に安保関連法案に対するデモが各地で長期間にわたり行われました。
反対だ賛成だ、左翼だ右翼だリベラル派だと耳にする機会が多くなった一年でした。
その中で、自分で考え、思い悩み行動した人はどれほどいたのかと疑問に思いました。全てのデモ参加者が、本当の自分の意志でそこにいたのか。多数派であれ少数派であれ、他人の意見に乗っかり流されてそこにいた者も存在したのではないか。インターネットの掲示板でも、言論の風潮に流され選択を誘導された書き込みが、さも冷静に俯瞰されたかのようなつもりで少数派を必要以上に批判する事も多々あったように思います。
これらの実態のない活動や言論が横行し、越えてはいけない一線を越え、守るべき人命をないがしろにした時代が過去にあった事を思い出しました。
なので、この度、遊劇舞台二月病は1971年からの連合赤軍事件から、榛名ベースで起きた事件を取り扱い、人命尊重の視点から現代社会への警鐘を鳴らす事が出来ればと思います。
この作品を通じて、「あなたの考えは、本当にあなたが大事にしている事を覚えていますか」と、自問する勇気を与えれるよう、誠心誠意、作品に取り組んだ所存です。
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僕の感想は何よりも感謝が立ちます。
皆様、本当にありがとうございました。
また、取材を受けて下さった皆様、文献資料を届けていただいた皆様、ありがとうございました。

今回、事件をほぼそのまま、実名を使用して描きました。その中で唯一、現在も強い意志と覚悟を持ち活動を行っている女性がいます。深い悲しみと長い孤独の中で闘い続けた方です。
彼女の「進藤隆三郎の名誉を回復させてやって下さい」との言葉を、少しでも背負えた事を痛く感じ入ります。
連合赤軍の山岳ベース事件は様々な媒体、メディアで取り扱われてきた題材です。進藤隆三郎氏はいつも、ヒッピーで女たらしでヒモ男で考えの甘い男として描かれています。
しかし、証言や坂口弘氏の 著作から思い起こる彼の姿は、全く異なりました。
愛する人を処刑出来なかった彼の思いが甘いものであるならば、僕も甘さを受け入れたい。むしろ、全ての人にそうであって欲しい。

僕の中に動いていた彼らが、悩んでいた彼らが、生きていた彼らが帰ってきました。
でも、凄惨な事件の結果は変わらない。変えられないし、変えてはいけない。
間違いは間違いのままに、凄惨な事件ではなく、思いのこもった生き様と死に様をなんとか描こうと思いました。
蘇った彼らに「表現としての暴力」として、実際に殴らせる事が、僕にはできなかった。彼らは持ち得た優しさにムチを打ち抑えつけ闘ったというのに。
やはり、僕はとことん甘いみたいです。

今回の公演を通して、亡くなってしまった彼らではなく、生きていた彼らに思いを馳せ、過ちを繰り返してはいけないと、考えて貰えた方が一人でも多くなる事を願いました。

皆様、本当にありがとうございました。

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遊劇舞台二月病
中川 真一

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by spacedrama | 2016-05-29 14:53 | 遊劇舞台二月病感想 | Comments(0)

この無謀とも言える挑戦に震える。恐いもの知らずの中川真一のチャレンジにドキドキする。近頃の若手の芝居はまるで覇気がないものが多い。遊びの域にとどまり、それで満足する作品が多い中、彼は常にリスクを怖れず、あり得ないような大胆な挑戦に向かう。バカである。でも、こういうバカさこそが若さの特権だ。ただ、今回はあまりに相手が大きすぎて、自分のキャパシティを超えている。

どんなテーマと向き合っても、破綻を怖れず、素材を自分に引き寄せることで、形を為してきた彼が今回に限って、事実に縛られた。大胆な仮説とか、オリジナルな展開とかを発揮することなく、実におとなしい。歴史的事実の「連合赤軍」に拘らず、ここに見出した自分のテーマ関心をきちんと追いかけたほうがよかった。もちろん事実をベースにする以上安易な創作は許されない。だが、どこでバランスを取るか。それがとても難しいことは事実だろう。実名にするという前提も一考すればよかったかもしれない。ひんしゅくを買ったって構わないから、彼にはもっと自分を信じてもらいたい。ボロボロの芝居になってもいい。今までだって、そうしてきた。なのに、今回スタイリッシュで(彼らとしては、だが)完成度の高い作品を作った。それは、反対に自信のなさの表れのようにさえ見える。

安保闘争がなぜ、つまらない内ゲバになっていくのか。理想は現実の前でどう分解していったか。正しいと信じたことが信じきれなくなったとき、どうすべきか。描くべきことはあまりにたくさんあり、ポイントを絞らなくては、何も描けない。今回の困難はそこに尽きる。ポイントを絞った若松孝二ですら三時間越えの映画になったのだ。(『連合赤軍 あさま山荘への道』)その先例を踏まえて、90分で描こうとしたはずなのに、ピンポイントから攻められなかった。悔しい出来になったのが惜しまれる。ぜひ、リベンジして欲しい。
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by spacedrama | 2016-05-27 00:11 | 遊劇舞台二月病感想 | Comments(0)
20日15:30の回を観させて頂きました。

世間の声が聞こえてこないこの作品、
連合赤軍はテロ組織。
集団リンチが話のメインとはいえ、そんなことは忘れてしまう程終始張り詰めた緊張感が漂っています。
銀行強盗してきたお金もさらっとしか描かれていないこの恐ろしさ。
だから自分の中でも正しさの基準がずれていく感覚がありました。

一方で、この事件から連合赤軍の残党があさま山荘事件を起こすまでを
史実として知っている私たちは、この事件がどう収束するか、そこは分かったうえで冷静に見ることができてしまう。
若者たちが夢に忠実に進む話ではあるけれど、政治活動がテロ活動、内ゲバにまで発展し、
最終的には"天罰を下す"もっと「大いなる者」に粛清されていく有様をみせたかったのかな、と思いました。

人を描きたかったのか、事件を描きたかったのかは分かりませんが、
現状に抗う組織のメンバーの心の叫びはストレートに心に刺さるものがありましたし、
役者さんそれぞれの熱量ごと、この事件の深刻さを受け止めることが出来ました。

でも、だからこそ、もっと彼らのパーソナルな事情が具体的に知りたかった。感情移入がしたかったです。
なぜその状況を受け入れざるを得ないのか、逃げたら総括が怖いから、だけじゃなく、それでもこの状況をを受け入れたのはその先に何を見ているのか、
それぞれが馳せる目的地が具体的に知りたかった。
それは人を描くにしても、事件を描くにしても正直見たかったところではあります。
葛藤が一番よくわかったのは森だったと思います。
自分より恐ろしい指導者が先に捕まってしまったから繰り上げでリーダーになってしまった、でも部下になめられたくないから…と
自らと戦い、自らを鼓舞するように総括を行う!「殴るほうの拳も痛い」とはこのことだと思います。
尾崎もよかったです。思想を掲げる自分と「総括」におびえ続ける日々の葛藤の中で、誰よりも前向きに、明るく生きようとしていたと思います。
実際の尾崎氏がそんな人だったのかは分かりませんが、だからこそ彼が死ぬときは他の誰より辛かった。
観客が自分を重ねられるような、皆が皆人間的な事情を抱えているとわかるキャラクターの描き方だと、観客は彼らの命を思いながらも、事件の重みも理解できたのかな、と思いました。
彼らの運命はパンフレットや独白で先に知ってしまえるからこそ、大義を見失わずに現状に抗う、もしくは葛藤の中で忠実に直進する、
その行動に感動したかったし、結局迎える地獄絵図に恐怖したかったような気がしています。

無名劇団 太田

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by spacedrama | 2016-05-26 19:01 | 遊劇舞台二月病感想 | Comments(0)
ネタバレしても何の問題のない作品にもかかわらず、終わってからのアップになってしまいました。
自分のメモした内容の意図を忘れかけています。非常にマズいです。

物議を醸しそうな演じさせ方のテクニックはともかく、作品自体は「逃げずに向き合っている」と。そう思いました。

輻輳する時間軸で、「名乗り」を前置きにした死に至るまでのあるいは生前の各人物のエピソードを辿って行き、彼ら皆の終着点に行き着くとそこには救いのない、すでに決着した現実(史実)が待ち受けている。

変えようがない、「解釈」という介入しか許されない事実への挑戦。
その挑戦について、大上段に構えて自論を陳べるというやり方をとるのではなく、唯、今となっては死んでしまっている者たちの側に寄り添うことを選んでいて、それをとても誠実に感じました。

集団や世間の圧力に対して、勝手に見栄を張ってしまったり意図を確かめずに動いてしまったりすることがこの悲劇を招いたと、この作品から読み取ることもできます。特に「恐怖と保身」を発端にして、信念無しに自分の言動を選択してしまうことの危険性は現代とも通ずるものが…
いや、現代のこととあえて繋げずに感じ取らないとなんだか死んだ彼らに悪いような、この芝居への感想としては軽くなってしまうような気がします。

でも、あの時代を生きていない私は、言いたいことを言うと殴られ、思ってもないことを言わされる状況には絶対になってほしくないとも思ったのです。
独裁よりも衆愚の破滅性の方が性質が悪い、そして誰もが、自分も衆愚の中の一人になり得る、ということを忘れてはならないと、そんなことも考えました。
彼らの作る、観た者が「何かを必ず考えさせられる演劇」の手法に、まんまと嵌ってしまったというわけです。

芸術とよばれる全てのジャンルの作品が、観た者を何らかの感情に導くことを目的として存在しているとするなら、この作品は見事にそれに成功したと言えるのではないでしょうか。
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by spacedrama | 2016-05-26 09:41 | 遊劇舞台二月病感想 | Comments(0)
こんばんは、劇団超人<正直に言います!>予備校主宰の魔人ハンター<おじゃまします>ミツルギです。

「事実」と「虚構」について考えさせられた芝居でした。

連合赤軍を芝居で描くのです。若者たちがです。
興味深いです。
その一方でそれだけでやるせない気持ちになったりするのです。
どうしてもきつい話になるからです。
せめて事実が元でも、元の出来事を知っていても、驚かせてほしいなーと思って観ました。
私は若松孝二監督の映画を観ているので、大概のことは知ってました。

驚いたのは人形です。血染めの人形です。
人形は人の身代わりで、この人形を叩く(叩いているふり)ことで、別の位置にいる人間が痛がるのです。
殴る人間の背中と殴られる人間が痛がる顔が見えるのです。
この歪んだ空間が面白いと思いました。
ラスト近く、人形の前に人がセットされます。
空間の歪みは無くなったけど、人間関係の歪みは修復不可能なところまで来てしまっていたのです。
この手法がこの作品の肝だなーと思った次第です。

これだけの事件を90分~100分程度にまとめた力は流石だなと思いました。
が、ちょっとまっすぐ過ぎたような気がします。
一本調子というか・・・。
芝居の途中でめげそうになりました。
息が吸えなくなる感じ。
それはこの作品では、それも想定内なのかもしれませんが、初めから最後までドーンとした重さがありました。

重いことが初めからわかってる場合、そこをどう裏切るかだと思うのです。
中盤ぐらいかな?銃の訓練を
「楽しかった。」
というシーンがありました。
なら、もっと楽しいシーンとして提示してほしかったなーと思います。

言葉での処理が多すぎて、感じられないのが物足りないところです。

若者の絆
若者の愛
の過去の部分。

リーダーが不安と狂気を持つようになる過程。

一体どこを目指したのかという未来の部分。

が、やはり観たかったと思うのです。

この芝居は事件のルポで、それはそれでいいのかもしれませんが、やはり芝居にのめり込むという感じで観ることができなかったのです。
終始、

こんなはずじゃなかった。
こんなはずじゃなかった。
こんなはずじゃなかった。

ではきつ過ぎる内容です。

芝居ならではの
「大胆な解釈」

「芝居の嘘の広げ方」
が必要だったのではないかな?

あの歪んだ空間の使い方と誠意を持って取り組んだ役者さんたちを見ているとそこまで期待したくなるのです。

もっと驚かせてほしかったというのが正直なところです。
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by spacedrama | 2016-05-24 19:22 | 遊劇舞台二月病感想 | Comments(0)

5/22(日)14:00の回を観劇。

連合赤軍の山岳ベース事件を取り扱った作品。学生運動も下火になった1970年初頭、銃火器を所持する赤軍派と資金力の豊富な革命左派は、利害の一致から共闘路線を取り、統一赤軍(連合赤軍)となる。だが共闘路線は赤軍派委員長の森恒夫、革命左派指導者の永田洋子の心情や立場も相まって内部の軋轢を生み、離脱者への粛正が処刑へとエスカレートしていく。公安に追われ活動拠点を榛名山山岳ベースに移し軍事訓練を行う連合赤軍。行き詰った空気の中、本来闘争後の反省や自己批判を促す「総括」は集団リンチ殺人事件へと到る。

事件の関係者ごとに章立てされ、インタビュー形式で当時が回顧される。被害者・加害者・傍観者として心情が吐露され、回想シーンが断片的に展開されていく。各被害者のリンチシーンが断続的に挿入されており、凄惨な事件のルポルタージュを読んでいるような感覚を持った。

物語の流れは実際の事件と同じなので、事件や事実をどのような意図で演劇にするかがこの劇の課題となる。二月病は、連合赤軍の人物を現代の若者に置き換えて劇を制作したように感じた。だから登場人物たちは革命への夢を追うものの、その夢の中身の現実感は薄く、夢そのものを追うことに執着し、苦難しているように見える。そしてそういった集団がやがて悲劇的な最期を迎えるのだというある種の諦観の念も根底にあるように感じた。

僕は連合赤軍や学生運動の世代ではないので、連合赤軍の実態は文献や映像記録でしか知らない。映画を何作か、本を何冊か読んだ程度の知識だ。二月病の描く連合赤軍はその知識で想像していたものと印象が違う。革命戦士たちは熱くない。というか熱くなりきれないし、強さも見えにくい。どこか優しさがあり弱く、自分に自信が無くて自意識は高く、周りの視線にテンパっているように見える。現代の20代にも見る人物像だ。仕事場で20代くらいの人たちと話していると、話し方や内容は非常にしっかりしているのに、実際に仕事をするとあまり何も出来ていないなと思う人にたまに会うことがある。そんな感じで、彼らの言葉は立派だが空虚なものに聞こえる。

連合赤軍が実はそのような人物の集まる団体だとしたら、と考えると、山岳ベース事件の悲哀はより一層際立つ。テロリストにならざるを得なかった者たちの行き過ぎた必死の思想統制で起こった惨劇ではなく、知識を持つ現代的な若者サークルの同調圧力による卑小なイジメ殺人だったかもしれないとも見ようによっては見える。現代版山岳ベース事件は思想も闘争も無くただひたすら寂しい。

単語が難しく、背景も複雑なので、バックグラウンドも含めて全ての情報を拾おうとすると集中力もかなり必要で、また独特の倦怠感と緊張感がずっと続くので、とても疲れる舞台だ。でもだからこそ、登場人物たちの嫌な閉鎖感と切迫した圧がじんわりと流れ込んでくる。

ドキュメンタリー的な演技法で演じる役者たちは大変だったと思う。カメハウスにもドキュメンタリー的な演技法が散見されたが、二月病の作業と違う部分がある。経験していない要素の割合が高いことだ。登場人物は学歴も非常に高く、いろいろな思想に精通し、革命を夢見て実践する行動力を持つ人物で、一般的な現代の20代と全然違う。同様の経験が役者自身にあるわけがなく、本作品の役者は自分の中にリアルには無い壮絶な経験を、観客に一切ばれず、本当にあるかのように形作る作業を迫られる。

演技を生み出す過程として体の動きや動作・所作(型)からではなく、心の動きから作る、というやり方がある。このように動く人だから感情はこう作る、の逆で、感情がこうあるから自然と体の動きはこうなっていく、というような作り方だ。1/10秒ほどの隙間を埋めるような細かいドキュメンタリー的作品の演技法ではこちらが選択されることが多いと思う。また自分の経験にない感情を作るには、自身が経験した感情の中から近いもの探し、それを増幅・縮小・加工をすることで似た感情を作ってあてはめる。この工程を非常に丁寧に作らなくてはいけない。それができあがると最後に型や見え方、声の調整などをして演技となる。この流れで作られた演技は、ダイナミックな動きがしにくいという短所はあるが、不随意筋の操作を含む細かな機微が出せる。

今回の作品の役者たちは体で見せる、声を届けるというより、それらの作業をこなした身体だったと僕は感じた。そういう意味で派手ではないが、青い炎のような熱演だったと思う。

一方で、そのような演技を取り入れている中、違和感があったのはリンチのシーン。舞台奥中央に、括りつけられた人間を模した人形がある。その人形を中心とした所定の位置で、人形が殴打されるのと同時に殴られた演技をすることによって暴行を受けているという見立てになっている。人形は殴らず寸止めする。この際の殴打の型に全く説得力がない。特に女性。直接的な暴力行為への演出配慮かもしれないと最初は思った。だがそこに至る演技が深刻にできているので、余計に奇妙な感覚が生じる。これはごっこ(異様な儀式)を表す表現なのかもしれないと思った。イジメごっこのような感覚でリンチ事件は起こり、被害者は死んでしまう。そう考えるとやはり惨めで寂しい。

この哀しく重苦しい本作品は観客へ負荷を掛ける手法も多用している。先述した繰り返されるリンチシーンの違和感と悲鳴などのネガティブな表現。内容が内容だけに難解な単語が多くシーンも少々断片的、かつ同時多発的でもある。バックグラウンドを知っていないと理解できず置いていかれるような感覚になる。これらは観客のストレスとなりやすい。またセンシティブな題材のため、思想がある観客と非常に強い反発を生む可能性がある(しかも題材的に結構そういう観客は多い)。なぜこのような作風をとるのか。

観客にネガティブイメージを与えることによる効果はある。本作品は歪んだ感じ、閉鎖された感じ、嫌な雰囲気の劇空間を永続的に構築することができていた(つまらない空間とは全然違う)。快の感情ではないが、これは演劇的成果だ。また観客の神経を逆なですることで、受動的に見ている観客を能動的にさせ、この演劇やこの世界を批判的に見よと訴えることができる。批判的であれという警鐘の意図もあるのではないだろうか。舞台美術がやや斜になっていることも手助けしているかもしれない。ドキュメンタリー的な構成も含め、観客への負荷演出も、訴えたり啓発している人物を冷静に見させるという意図が盛り込まれていると考えた。だから芝居は熱いのに劇は熱くはない。どこまでも白けた雰囲気が残る。観客が連合赤軍に感情移入し共感することを拒んでいるのかもしれない。

本作品は少なくとも単純に観客を楽しませる演劇、というものではない。演出挨拶を読むと、表現の全てに自信があるわけではないと書いてある。だが自身の思想や演劇の技術に欠点があるということを含んだ上で、この題材で表現をするという行為に対しては自信を持っている。実際の事件を題材とする演劇をドキュメンタリー風に制作するのは勇気が要る。極私的な物語とは違い、表現として事実を脚色した場合、それに相応する理由や意味が必要となる。無責任で恣意的にはなれないという枷が付きまとう。しかも批判されないことはほぼあり得ないけもの道だ。本来、人気商売という側面もある演劇人としてはできれば避けたい。だが、彼らはそこに立ち向かっている。少なくとも題材を深く調べ、登場人物の最期に到る心情を彼らの持てる演劇的想像力を精一杯使用して作品を制作した。その成果は発揮されていたように思える。

演劇は、他のジャンルのメディアよりもより身近に、五感で人間の営みを体験できるという魅力がある。人間学とでも言うべき道徳・歴史の立体的な教科書として位置づけられるジャンルという側面もある。本作品はその類のものだったと思う。口伝や映像や文章よりも生々しい体験を伝える、伝えられる手段として僕たちは過去の人間の過ちに対する精度の高いトライ&エラー集を持っておきたい。その中身が正確に伝わっているかどうかの精査は必要だが、その行為、つまり演劇は必要だ。以前、應典院の山口主幹がコモンズフェスタの副題にしていた「身構え」という言葉が浮かぶ。45年ほど前の事件を、死者を偲ぶ應典院で行う。現代に通ずる部分も多分にある。戦争もデモもなくなっていないので当たり前かもしれないが。また純粋に被害者を弔う意味もあるだろう。だが二月病の本公演はテロ集団でもある連合赤軍が遠い過去のものでもなく、遠い犯罪者のものでもなく、遠くて近い舞台上のもののように僕たち観客の身近で起こる可能性を示唆し、またそれを避けたいという意志を静かに訴えているように思う。

はっきり言ってウケる観客は少ないかもしれない。手を叩いて面白いという作品ではない。叩かれることも多いだろう。でもこういう表現がなくなったら、ある意味で演劇や表現は要らないんじゃないかとも思う。トライ&エラーを経て僕たちは効率よく生きていこうとしている。だから僕はこの苦行僧のようなこの団体を応援したくなるのだ。


baghdad café
泉 寛介
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by spacedrama | 2016-05-24 16:41 | 遊劇舞台二月病感想 | Comments(0)
連合赤軍の事件は僕自身生まれる前の事件だけど、現在にもまだ影響のある事件だけにすごく骨太なことを20代の劇団がやるということに興味がすごく湧いた。
70年代に20代だった人物たちの葛藤を現在20代の俳優たちが演じる。
俳優の現状を舞台にトレースできればすごい熱いものができると興味深かった。
しかし、過去の事件を説得力をもって舞台にあげるのは本当に難しいっていうのがよくわかった。
「同事件を現在に起ていれば」というのではなく70年代の若者たちが起こした事件そのものを上演するための説得力に衣装や髪型、髪の色などによってどうしても欠けてくるのがもったいない。そんな靴は当時にはないだろう、その格好で山にこもらないだろう、そういう余計な思いが出て来てしまう。山の中にあるベースで身ぎれいなままでいることに切実さがでなくて残念だった。
それだけで空々しくなってしまうのはもったいない。
演出家には徹底的にこだわって欲しいと思うのは観るものの勝手な思いだけど、そのこだわりや熱意が作品にこもると思うのです。
登場人物たちを追いつめていったものは何か、舞台上の俳優やスタッフは同じように追いつめられるほどの思いで作り上げたらもっと熱のこもったものができあがったのではないかと思った。お金や時間の制約の中でもがいてつくるものを観たい。

リンチをする時に人形が掲げられていた。それを殴ることで標的になっているものを攻撃するという演出があったが、何故実際にそのものを打撃しなかったのだろう。現実に俳優を殴るわけにはいかない(実際に殴るような劇団もあるけど)しかし人形を殴ることは出来たはずだし、それによってお客さんへ、痛みを届けることが出来たんじゃないかと思う。
やっぱり演出家には徹底して欲しい。作りたいものに、見せたいものに、徹底的にこだわって欲しい。
この人形へのこだわりがなんだったのか、このことは演出家の中川君に聞いてみたい。

大きなテーマに挑戦すること、それとどう対峙するか、応えるか。
劇団の掲げた標榜をしっかり見せていって欲しい。

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by spacedrama | 2016-05-23 02:58 | 遊劇舞台二月病感想 | Comments(0)
遊劇舞台二月病「LEFT〜榛名ベース到れる〜」を観てきました。
結論から言いますと。僕は途中から『いやだ、いやだ』と思いながら観ていたのです。
観劇後、ドラマよりも何よりも、ただひたすら暴力に対する嫌悪感が強く残りました。

この作品を観るにあたりパンフレットに目を通していたのです。
そこにはこの劇中で起こる出来事が懇切丁寧に書かれていました。
おそらく最後に救いが無いだろう事を突きつけられながら観劇をしました。
そのせいかもあり。
また斜め向きでどこか『外から目撃』しているような舞台構造もあり。
次第に目を背けたくなり、上記のようになりました。
ただ。それでも食い入るように物語を観られたのは、俳優が外へ、客席へアプローチしていてくれたからです。
物語を伝えようと、意志を葛藤をきちんと届けてくれていたからです。

この作品は登場人物が過去を回想するモノローグ(独白)を散りばめながら進んでいきます。
しかも極めて時系列通りに。親切に展開していきます。

その俳優について。
若い出演者が多く、年齢的なフィット感もありますが。
誤解を恐れずに書きますと、俳優としての技量…キャリアみたいなものがちょうどええなと思いました。
妙に上手いわけでもなく、特に「ああ、人を殴った事が無いな」とわかるような身体の使い方が作品と登場人物にマッチしていたように思います。弱いというより、未熟に見えました、諸々。
きっと当時の若者達もこうした「普通の」何でもない若者やったんやろうな、と思う程に。
その妙にたどたどしい所が、登場人物の葛藤やドラマにあまり着眼させず、より「暴力」という行為そのものに目を向かわせたのだと思うのです。
人形を使ったり、直接的なコンタクトをしていない所も、登場人物達は暴力を暴力と認識出来ていない人達なんかな…と思って観ていました。

松原君の独白は汗と鼻水と涙に溢れてアツかったし、ルーデルマン君の矛盾と狂気に充ちた感じも心引かれました。
けどその登場人物達に共感も同情もしえなかった。それ以上にイヤだった。
それほどに凄惨な印象が残った舞台であったと思います。
「僕はこんな事しねえぞ」「何があっても暴力には訴えんぞ」と思いました。

そういう意味で、僕の価値観や経験を揺るがしたわけだから。
中川君、君の覚悟ってやつは、そりゃあ凄い事だと思いました。
劇評というより、ただの感想みたいになったのも。どこまでがどう演出なのか感じられなかったって事ですから。
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by spacedrama | 2016-05-22 10:09 | 遊劇舞台二月病感想 | Comments(0)