space×drama2016の感想を様々な視点で載せていきます 。300文字以上の感想を各劇団が書いていきます。皆様もコメント欄に是非お書き下さい!


by spacedrama
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カテゴリ:s×d2009( 103 )

しろう@照明の観劇(いやさむしろカン劇)感想文
カン劇Cockpit「HUMAN BEING」

 先ず驚いたのが。作品の題材が「エレファント・マン」と、今時の若い芝居人にしては随分とストイックな選択をするものだなあと云う事。
 パンフレットに、演出の松本大志郎氏のエレファント・マンに対する思い入れが書かれていて面白かった。(パンフレットの演出あいさつと云うと、どうも中身の無いものが多いよなあと常から思っていたので尚更興味深かった。)

 さぞ産みの苦しみがあったろうと思うのだが。こうして完成した上演作品だけ観ると、「ああ、こんなにも演劇向きな題材だったのかこの話は」と思わせられた。
 劇団オリジナルの戯曲だと、良くも悪くもその劇団でしか演じられない作品が多いが。このホンは、他劇団でも、いっそ演劇部とかでも使える戯曲だよなあ、と、ちょうどこのSpace×Dramaを分断する形で開催されたHPF(Highschool Play Festival)を思い返しながら考えた。


 まず客席に着いて眺むる舞台は、いわゆるイントレという奴だろうか、工事現場の足場を組んだ立体のある舞台。構造物を色々な角度からじんわりと照らす照明が美しい。
 その舞台を、色々な人達が主人公の元へ去来する。何気なくも役者達は大変だろうと思うが、この空間の移り変わりの速度が丁度良い。


 物語は、主人公「エレファントマン」ジョセフの半生を描き、その一生に賛辞を送る形で、彼の人生ごと幕を閉じる。

 良い意味で、もやもやしたものが残らない。
 このSpace×Dramaラインナップに、この作品があって良かったなあと思った。
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by spacedrama | 2009-10-02 02:00 | s×d2009 | Comments(0)
しろう@照明の観劇感想文
妄想プロデュース「約、1800光年の走り屋」

 妄想プロデュースと云うと、勢いのある劇団だとは聞いていたのだけども。実の所今まで公演を観たことがなかったので、今回の機会を楽しみにしていた。


 三部作のうちの二作目、と云うことで。一作目を観ていないこの身ではあるものの、そこは別に気にせず、入場時に手渡された「前回のあらすじ」らしきハンドアウトに目を通す。
 結局のところ、前作を観ていた所で、ストーリーやくすぐりがいちいち噛み合っていくと云う訳でもなさそうだ。一作目を観た人が脳裏に抱いてやって来るのは、細かいストーリーではなくて作品世界の雰囲気なのだろう。
 三作を全部観たら、その底に繋がるテーマも感じられるのだろうけども。今日はただこの二作目を、独立した一本の芝居として観るのみである。



 客席について舞台を眺めてみると、高い! 高低のある舞台を組んであるのだけども、舞台奥の台が高く、しも手の舞台美術などは照明バトンまで絡んでいるじゃないか。
 この公演の舞台監督、堀田誠氏(CQ)から「仕込みが大変だ」とは聞いていたが。成る程、さもありなん。
 あまつさえそのしも手奥の美術は、役者の常駐位置になっていることが開演後判明。芝居の終盤ではぱっかりと開くギミックつきだ。何とも面白い。


 開演直後、役者達が中央奥の出はけ口からどどっと舞台になだれ込んできて、奇態に動きながら群唱する。こう云う、いかにも小劇場然とした外連味のある演出は大好きだ。

 よく動く役者というのは、観ていて小気味良い。主人公が大方ずっと走っている(タイトルの通りだ)のも、好きだ。

 どういう物語だったか、と人に問われても、うまく説明出来ない感じなのではあるが。
 不気味さと激しさ、強さと儚さがぎゅう詰めになった、良い演劇を観たなあと云う満足感を持って、劇場を後にしました。


 三作目も、観たいですね。
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by spacedrama | 2009-10-02 01:50 | s×d2009 | Comments(0)
しろう@照明の観劇感想文

 今年のスペースドラマも大盛況のうちに幕を下ろしましたね。
 私の劇評の方は、大いに遅れてしまっていて誠に恐縮でありますが。お時間ございます方はしばしお付き合いの程よろしくお願い申し上げます。


 今回の満月動物園は、何と二本立て。
 二本の作品を同じ舞台設定でやるわけなので。舞台美術は双方の作品の雰囲気に合っていないといけない訳だが。この課題、シンプルな四角い舞台を白いカンバス地で覆い、後の幕も白でまとめて無表情に仕上げるという方法で処理している。
 大概は、ただ黒で覆ってしまった方が芝居の空気に変に干渉する事もなくて使いやすいのだが。満月動物園の公演には、映像プロジェクタ担当に相内さんが就くので。カンバス地の床面や幕は時にスクリーンとなるのだ。
 これは綺麗に仕上がっている。



 で、一本目。
 満月動物園「トラワレアソビ」

 兎に角、役者のパワーが凄かった!
 冒頭の、男達が蝋燭を手に話し始めるシーンからもう、大いに作品に引き込まれてしまった。何という雰囲気!


 牢獄は二人の死刑囚がいる。宗教家ナザレのイエスと、強盗殺人強姦監禁脅迫なんでもござれの凶悪犯罪常習犯バラバのイエス。殿村まこと氏演じるこのバラバの方が主人公だ。
 人々も、バラバのイエス本人も、たった一人だけ得られるという恩赦を受け死刑を免れるのはナザレのイエスだろうと思っている。
 勿論観客側は、ナザレのイエスが思想犯として磔刑に処せられた事を知っているが。バラバのイエス達登場人物は、まさか「ちんけな口先ペテン師」の方が優先的に死刑にされるなどとは思っていない。

 収監された死刑囚バラバの、粗暴に毒づきながら、自分が死刑に処せられる事に斜めから向き合っていく様が非常に骨太に演じられていて。
 そして毒づきながらも死を覚悟した最後に、自分が恩赦を受けた事を知り、受け入れた死を奪われた慟哭。

 迫力のある一本でした。


====

 二本目!
 満月動物園「ツキカゲノモリ」

 ごつごつ骨太なトラワレアソビに比べて、もっとずっと繊細に感じられたツキカゲノモリ。
 こちらの作品も、導入の掴みが非常に強かった。


 私は役職柄、芝居を観ている最中にはつい、灯体をもじろじろ眺める癖があるのですが。ツキカゲノモリの前にトラワレアソビを観ている間、どうしても納得行かない灯体が一灯だけバトンに吊ってあるのが気になりまして。
 本来上から下を照らすべき吊り灯体が、2サスバトンのセンターに吊ってある奴だけ、ぐいっと上を向いているのだ。そんな所に明かりを当てたって、キャットウォークの上の屋根裏が狭く照らされるだけなのになあ。
 キャットウォークと云う、観客にとっては本来演技空間の外にある意外な場所を演出に用いるというのは、劇場によっては有効な表現なのだけども。この應典院のキャットウォークは、そう言う用途には向かないだろうに。
 果たして一体どう使うのだろう?と思っているも、結局トラワレアソビの劇中ではその灯体が点灯する事はなく。
 トラワレアソビを観た後、会場整理と仕込み直しの為に一旦ホールから出て。ツキカゲノモリを観るべく再入場して驚かされた。
 舞台上の照明バトンが降りきっているのだ。成る程、そう来たか。

 前説をしに出てきた片岡百萬両氏。気楽なように話しているのが不意に本編の演技に入った瞬間!かざした掌に集中する光。
 2サスバトンの真ん中で上を向いていた灯体は、この瞬間の百萬両氏の掌狙いだったのだ。
 やってくれる。

 そんな塩梅に、照明、映像、舞台美術、衣装が渾然一体となって引き込まれる。



 看板女優の美女、河上由佳氏。非常に表現に幅と深みのある女優なのだが。今作では敢えてその表現力に蓋をして、ひたすら無表情に棒読みで喋る死神の役だ。勿体ない。贅沢だ。
 と、思っていたら、ちゃんとラストではヒロインだった。ずるい。ずるいぞ満月動物園。


 満月二枚看板(と主観的に評している)のもうひとかた、諏訪いつみ氏。この人は何だってこう、ツンデレ女性の役が似合うのだろうか。あまつさえ恋に幸薄い感じが漂う。
 今回は彼女の得意の、動きのある芝居があまり観られず残念。


 常連客演の片岡百萬両氏(ミジンコターボ)。彼はその表現力から、変人や無頼漢役がよく似合うと云う印象で記憶していたが。今回はイマイチ煮え切らない今風の青年役だった。これはこれで面白いのが、うまいよなあ。


 重田恵氏(コレクトエリット)は、今年のスペースドラマには2度目の登場だ。売れっ子さんである。さもありなん、彼女の優しい佇まいと、それを覆して見せてくれる表現力はとても魅力的だ。一緒に芝居を創ってみたい(主観的には明かりを当てたい)役者なのだ。
 最近では、突撃金魚とバグダッドカフェで立て続けに、黒い衣装を纏って歪んだ感じのする役だったもので。今回の自然な感じの役柄を非常に心地良く思えた。


 竜崎だいち氏(ミジンコターボ)。彼女は役者で作家なので。クレバーでしたたかな女性なのだろうと憶測するのだけども。どうしてこう、彼女の演じる女性は不器用で一生懸命なのが愛らしい人ばかりなのだろうかと首を傾げる。



 作品自体は面白かったし、好きなのだが。もっと動き回って欲しい役者ばかりが出ていた割に、随分とおとなしい纏め方をされたものだなあ、と云う印象。あっさりライト過ぎる。
 併演のトラワレアソビが、殿村さんが吠えたくる作品だったので。こちらまで激怒や慟哭してちゃしんどいというバランス感なのかも知れないが。主観的には、それはそれ、これはこれとして、もっと右往左往する登場人物達を観たかったなあと。

 でもまあ、大変楽しめました。次回作も楽しみな満月動物園さんです。
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by spacedrama | 2009-09-30 00:05 | s×d2009 | Comments(0)
このspace×drama2009の最後の劇団なのに、なかなか書くことができませんでした。みなさま遅れて申し訳ございません。いろいろと考えさせてくれる劇団でした。

観劇日:2009年8月30日(日)PM1:00

(感想)
 日曜日の昼公演。ここしか日程の都合でみられなかった。日曜日の昼公演は混雑するだろうと思っていたのに、意外であった。割りと客席に空席があり、ゆったりとみられた。(私がみた space×drama2009なかで二番手の空席率だった。)
選挙投票日だからだろう。それとも面白くない劇団だからだろうか。意外だった。
お名前も劇団も知っていて、作者の方も名刺交換をさせていただいたこともあったのだが、なかなか行く機会がなく、今回初めての舞台。舞台セットもしっかり美術としてつくられたもので、照明も音響もきちんとある。それなのに。。。
見る前、その客席のあきぐあいに、正直、自分だけが暗転になり、遠くで話しつづける芝居になるのだろうかと思ってしまいました。(目をつぶって、話しだけを聞く状態。まあ、それもひとつの縁)

だが、そういう不安はいっさい裏切られた舞台だった。

芝居はもはやいいとか、わるいとかでは芝居の客が多い少ないには関係ない。長くやっているからとか、もう何回もみたからとか。はやりすたりで変わっているかもしれなし、どれだけ客演がいてその広がりで客がひろがるかとか。芝居をみることがいまをみているおもしろさというよりもただの与えてくれるおもしろさをもとめている客が増えているとすると、芝居はさらに単純なものに成り下がってしまう。そういう所で芝居をしていなく、自分たちがいまどうあるのか、社会のある部分から、切り込んでいきながら、それでも楽しいものにしょうとする。社会派とかいわれているそうですが、私は生活派ではないかと思いました。社会告発や啓蒙などに主点が置かれているのではなく、あくまでも、これはひとつの青年の自分の闘いのドラマに集約されているからだ。

ひとがひとと向き合うこと。これは実はとても大変なことであると思う。そこにコミュニケートできない個々の事情が障壁としてあればあるほど、それは当たり前に難しいことなのだと知る。だから、伝わり会うことができる思いやりが自分ななかから出てくるものでなければ、実は友人、家族、社会は自明のものでは形でしかないものへと変わっていくのだ。でも、私はそこまで他者と関わり続けていくことができるのか。実はそんなに関われないようになっているのではないのか。この芝居の視点と少し違う所から入るが、関わりが強迫管理されているがゆえに、実はもう他人に関わりたくない。いや、関わりたいのに関われない、切り離されている社会精神状況があるように思う。

主人公セキドが敗れたものは昔から抱きつげた青春や恋の想いではなく、また、市井風子が若年性認知症でありながら、自分がなにものかの不安を抱えながら忘れてしまう所での、それでも伝えたいが伝えられないわたしのこえでもない。
ひとに向かうところで、伝えようとしているが、伝えられることに自信が持てない自分や相手そして、社会に敗れたのだ。

この日、衆議院議員選挙の投票日だった。
次の日から、すべては変わろうと動き出した。でも、これからなのだ。
セキドは路上からまた何かを伝えられることをはじめた。そこにみるものはなにをみたか。
すくなくとも日常の、こんな兄ちゃんたちいたらいいなあと思えるものだ。その想いはしっかりと伝わった。

(劇評)
 芝居に社会状況をいれるとき、深刻になろうとする。でも、それは扱う素材への立ち位置なのだ。告発や啓蒙もときには、有効であるが、歴史が示しているように、凄いありがたいものを偉い人がしていただいて、というように庶民は知識としてしか、それらを受けはしない。そして、気づけば、演劇芸術は高みにいってしまい、結局、上から目線になっていく。
 この劇団はそういう立ち方ではなく、芝居のなかを見つめる所で、個人ではどうしようもできないこと。でも、そのなかで、頑張っているひとと同じところから、でも、芝居つくり屋としてのうそは多いにつきながら、そこに、生きている人を描き出すものでつくりあげていた。
 少しだけ、気になったのは、役者がそういう役割の役をやっているのに、それを知っている
専門家という立ち位置で言っているように感じられた。それは、専門で勉強している学生が知識を得たからその世界をしっているのに、似ている。そこには実践があるのだ。たとえ、役者の中に、その専門家がいても、やっているのはその世界の状況説明ではない。そこにあるひとのおもしろさであるのが、芝居屋のやるところであろう。重箱の隅をつつくような気もするが、おおいなるうそから出たまことをする劇団だろうと思うので。これから新しい劇団はどうなるのか。次を期待したいです。


 今回いろいろな大阪の劇団を見させていただいて、とても刺激と思考と苦悩と絶望と期待を抱かせていあただきました。当たり前のことですが、芝居はまだまだ続く。そんな想いでこれからも自分も芝居をつくり、また見ていこうと新たな力を得ました。ありがとうございました。
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by spacedrama | 2009-09-23 13:02 | s×d2009 | Comments(0)
こんにちは、福村実緒子です。
とうとう最後の劇評になりました。
たぶん・・・いや、きっと今回もツッコミどころ満載の「どこが劇評??」みたいなことになっていると思いますが、温かい目で読んでいただけると有難いです。すみません。


特攻舞台Baku-団さんは、もうずっと前から存じ上げていました。
いつも友人との会話にも登場していたんですが、なかなか観る機会がなく・・・
チラシを見掛けたり、友人から感想を聞くばかり。
でも、今回やっと観劇できたー!!
なんか、ずっと達成できなかったことが達成できたみたいな感じで、めちゃ嬉しかったです。
観ただけなのに、やりとげた感あり。笑



今回のお芝居は介護という難しいテーマを扱っていました。
介護問題は大変だといいながらも、実際の現状を知っている人はいったいどれくらいいるのだろう?
こうやって芝居の中に取り入れるというのは、ある意味勇気が必要だなーなんて思いました。
きっと、描き方によったら嘘っぽくなっちゃったりするだろうし、その職業の人からしたら現実と違う!ってなったりもするだろうし、難しい・・・。
でも、今回はなんていうか、バランスが良かったです。
こういうテーマを扱うと重たくなりがちで、観ていると苦しくなったりしちゃうんだけど、パンクロックな主人公を絡めているせいか、芝居自体を楽しむことができました。
いやー、すごいな。
こういうことを、サラッとやっちゃうところ。
あと笑いがあちこちに散りばめられていて、笑ってばかりの約2時間。
でも、ちゃんと介護問題の現実や、風子の事実、主人公・関戸の葛藤などがあるから、グッときたり考えさせられたり。
まぁ、たまーに関戸にイラッときつつ共感みたいな。笑
でも、関戸を通して、人生って自分次第だなって、あらためて思いました。
人ってよく何かのせいにしたりしちゃうけど、決断するのも、考え方もすべて自分次第で変わってくる。
もちろん、楽しむのも。
だけど、人間は時に無力で、目の前の現実に打ちのめされる時もある。
そんな時はできれば独りじゃないといいな、なんて思いました。
直接、何かをして助けてくれるわけじゃないけど、誰かが自分のことを考え、想い、見守ってくれるって幸せなことだと思う。
関戸のカイゴを通しての気付き、葛藤、成長を見て、そう感じました。
そして、自分がもし、関戸の立場であったら、どうしたのだろうと・・・。
関戸と風子の別れのシーンでは苦しくなり、人間に生まれたからこそある感情の辛さを感じました。
人間であるがゆえの複雑さ。
ここでは、扉越しの会話だったのですが、ちょっと押しが足りない気がしました。
なんだろ、扉があるせいか気持ちまで遮断された感じでしょうか?
もうちょっとで泣きそうになったんですが、何かが邪魔してました。
本当はそれを的確に言えなくちゃいけないんですが、経験不足ゆえ、すみません・・・。
今回の芝居は役者さんが、ハマり役なうえに、演技がすごいので、芝居に引き込まれました。
しかも重たいテーマを扱っているにもかかわらず、ラストはすっきり感あり。
こんな理想的な芝居ってなかなかお目にかかれないよーと思いました。
そうそう、装置もすごかったです!!
奥行きがあって、アパートをうまく表現していました。
毎回、メインとなる部屋を表札を使って変えていくっていう方法だったのですが、頭がこんがらがるかなーと思いきや、そんなことなかったです。
その部屋がメインなのに、違う目で、アパート全体の様子が見られるというのは、介護の実態を表現する際にも役立っていたのではないかと思います。
まぁ、個人的には、特別ゲストの方からの無茶振りコントがツボだったのですが、いやー、あれは自分が舞台にいたら絶対したくないな、なんて思ったり。
うん、お題が選挙ってのは難しい・・・。
でも、そこもしっかり楽しませていただきました。



今回も特攻舞台Baku-団さんの芝居は私にとって良い出会いとなりました。
もちろん、今まで観劇させていただいた劇団さんも。
このような経験をさせていただき、本当にありがとうございました。
今後も芝居を楽しみたいと思います。
お疲れ様でした。
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by spacedrama | 2009-09-09 00:16 | s×d2009 | Comments(0)
満月動物園で演出をしております、戒田竜治です。
space×drama2009も大団円で終わりましてなによりでした。
特攻舞台Baku-団さんの『ハイツ・カイゴパンク』を拝見しました。

特攻舞台Baku-団さんと満月動物園とはspace×drama2003の同期で、
2003の優秀劇団だった劇団鹿殺しさんもちょうど昨日まで大阪に帰ってました。
なんだか巡り合わせを感じつつの観劇でした。

ハイツ・カイゴパンクが描くように、僕たちは基本的に無力だ。
無力だからといって何もしない訳にもいかない。

日々平穏を祈りながら、毎日が違うことも知っている。
むしろ同じ毎日には耐えられない。

上手くいかないことを前提にして生きている。
だから前提条件が違う状態を受け入れるのには、時間がかかる。
かくも生きるということは非効率だ。

その上に僕たちは「ファーック」「デストローイィ」と叫びをあげる
対象を喪失している。
ほとんどが自分のせいであることを知っている。
いや、回り回して自分のせいであることにして、非生産的な納得を得ている。

だから、自分のせいでもなく、本人のせいでもない、
市井風子(西原希蓉美さん)の境遇に面して、うかつに泣くこともできない。
ただ「可愛そうだ」と言わせない風圧を「ハイツ・カイゴパンク」は
持っていた。

結局、生まれてきた意味も、生きている意味も、自分で決めるしかない。
他人がとやかく言うこともできないし、他人にとやかく言われたくもない。
特攻舞台Baku-団さんは本作品で終了し、ステージタイガーという
新しいフィールドに移られるとのことですが、
これから俺たちはそうやって生きていくんだという決意を感じる
作品でした。


ただいかんせん、西原希蓉美さんが良すぎた。

主人公の関戸久人(谷屋俊輔さん)はじめ、義理の母、栄養士と、
過去に桎梏を抱えた登場人物が多く、その桎梏を軸に物語が
展開していく構造上、「過去が消えていく」存在である、
市井風子の存在は構造上、特異点とならざるを得ず、
主題をかすませてしまっていた。

その構造にきて、西原希蓉美さんのパフォーマンスが良かったので、
一瞬、完全に作品をさらってしまった。

関戸久人と市井風子のドア越しの別れのシーンでは、
関戸久人の無力感を、もっと立たせる演出があれば良かった。
せめて並列させてほしかった。

いやむしろ個人的好みから言えば、「過去が消えていく」市井風子が、
関戸久人の「過去に加わる」構造を追って欲しかったのかもしれません。
ただそうなると「過去」にまつわる物語になってしまって、本意からは離れるか。


とまれ、space×drama2003同期で、今だ活動を継続しているのは
満月動物園と劇団鹿殺しと特攻舞台Baku-団改めステージタイガーさん
だけとなってしまいました。
「負けないぞ」という言葉でステージタイガーさんの新たな門出を祝いたいと思います。
これからも楽しみにしてます☆
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by spacedrama | 2009-09-07 00:44 | s×d2009 | Comments(0)
大好きで止まないバンドが活動休止宣言をしてしまい、
ラストライブでスパークして少々腑抜けになってしまっている仁井千絵です。

それでも人生進んでゆくしかないのです。
前を見てね。

音楽って、すばらしいとかみ締めております。
演者とお客の命のやり取りって言っても過言じゃないです。
さて、今回はそんなバンド活動で音楽と向き合い、
中指立てながら奮闘する主人公と、音楽につかづ離れず寄り添いながら
生きてゆく人々のお話。

この芝居のイメージは「赤」です。
政治的なことではなくて、色としての赤。
血の色でもあるし、情熱を表すときの色でもあるし。

介護と聞けば、とかく真面目で、おちゃらけられへんやんって
感じになりがちな題材なのにどこまでもポップに仕上がってて、
痛快だねぇ~とさえ思わせる。

時折、ロッキーホラーショーを観ている気分にもなれて
米粒を投げそうにもなるくらいに、中へ入っていけました。
ゲストコーナーがあったので、ちょっと一体感を味わう。
うろ覚えの絵だけじゃなくて、アントワネットとは…(笑

施設で生活する人たちに、最初は正直戸惑ってしまいましたが
だんだんと慣れてきた自分がいて、楽しめるんですよね。
一人ひとりが抱えている問題は、個性として捉えることで
支える人間側の個性も光ってくる。
舞台美術も部屋のナンバープレートを移動させて
場所を展開してゆくところ、スキです、この感じ。

観ているうちに幼稚園のときに同じクラスだった子が、
知的障害だったことを思い出した。
クラスの誰しも知っていたけど、だからどーしたって空気だったことも含めて。
彼女は今、どんな生活を送っているのだろうかと、ふと思いを馳せたみた。
家族といるのか、ひとり暮らしているのか、施設にいるのか。

音楽は人を救い、突き落としもする。
芝居の主体は音楽ではないのだろうけど、絡まったことで
重苦しく受け取りがちなことも、そうは見えないし、
義理ではあるけれど母親の持つおおらかさが、ティラミスみたいかも。
濃厚なクリームが重なって、土台のスポンジには濃い目のエスプレッソが染み込んでいて。
いろんな人々がかもし出す、すっぱいフランボワーズソースもかかっていたかな。

そして、芝居のところどころに阿部サダヲの影が見え隠れ…。
これがいいスパイスになっている。

今回は舞台だったけど、映画になっても面白いと思う。
舞台ではできなかった効果を使いながら、映画として世に出しても
楽しめる作品だったと、何の権限もない一般人が勝手に思っています。

介護をする側、される側、私は将来どちらの生活を送ることになるんだろうなぁ。
ちょっと、考えてみた。
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by spacedrama | 2009-09-06 23:31 | s×d2009 | Comments(0)
観劇日:2009年8月18日(火)PM7:00

(感想)
芝居長い。
生理がついていかないので、ながく、ながく感じる。(時間は1時間15分)
ひと間芝居。引っ越し屋の携帯からある引っ越し現場舞台。携帯電話の話しよりここの若い男がゲームに熱中して引っ越しがすすまず、あげくの果てはゲームをクリヤーしてから引っ越しするかどうかを決めるという。
なぜなのか。
と答えを意識する観客に、石川遼に似せようとした先輩。色々口出して姉貴づらの隣人。なぜか、押し入れでこちらの動きをとらえている侍。このひとたちは主人公お構い無しに酒を飲み出したりする。
それにも動揺しない主人公。なりゆきを見守る引っ越し屋。
さあ、なにか、これだけそろえば、対立、混乱、葛藤がおこるだろう。でも、変なやつら、図々しいやつら意外なにもおこらない。 そこに風俗嬢チームが表れる。展開である。

主人公がしているゲームはモンスターハンターらしい。つまり、攻撃して倒すというもの。実はその他人の自分を巻き込むあり方がまるでモンスターのようであり、それを本人がいうのではなく、そこに来た引っ越し屋がその理不尽を叫ぶ。そして、引っ越し屋の妄想?となって終わる。
終わり際に本人が大切にしていたのは自分が大切にしていた家族の写真が映しだされる。
誰の葛藤か?それはわからない。たぶん、作者の葛藤なのだろう。では、演じている役者にはそれを再現する役だけが与えられている。これは映画的お芝居なのか。それでもゲームする主人公の葛藤でなければ、客には、ともにみることはできないだろう。つまり、客はずっと置き去りにされるだから、長く感じるのだ。

(劇評)
とある状況は描かれていて、そこに、いろいろなキャラクターが現われて、そのキャラクター
の有り様からこの状況はみえてくるのだが、ゲームをしている登場人物が主人公なのか、引越し屋が主人公なのか。話の流れは最後にいって変わってくる。話ではなく、ある決められない男の心理におかれているのだ。人と人の関係はつながっていなく、まるで、互いのことでしか関われないものたちですぎないようにみえるが、演出はそこまで持っていっていない。話のどんでんだけが描かれていて、そこになにを描きたいのかは絞られていない。なぜ、彼は(ゲームする男?
引越し屋?作者?)そのようなもどかしさを感じているのか。そこが感じたかった。
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by spacedrama | 2009-09-06 21:56 | s×d2009 | Comments(0)
観劇日:2009年8月12日水曜日午後13:00

(感想)
 お話は映画になった「エレファントマン」を芝居している。極度な身体奇形をもってうまれてしまったゆえ、また生い立ちも下層階級であったため、家族・社会から見捨てられ、見せ物小屋の興業主に拾われ、見せ物としてさらされる。やがて、見せ物排斥運動にあい、また、見捨てられるが、見せ物にされたときに、医学的見地の特異例として興味を示した医師に庇護されて、やがて、上層階級のあわれみと同情の対象にされながら、でも、彼は至福の想いのなかで、健常者より、身体の機能不全のため若くしてなくなる。
この芝居なかで、エレファントマンは純粋なものとおかれていて、その接し方は素直である。そして、それにかかわるものたちはみな腹に一物もつものとして、描かれているため、みるものとしては共感よりも、同情を感じてみてしまうので感動しやすいもの、感激しやすいものになってしまっている。
芝居の見やすさとして、演出としてはわかる。ただ、どうして、まわりのものは彼を特別なものとしてみてしまうのか。そのあり様がおよそ自分と同じひとではないとみてしまう。その部分をもっとみたかった。彼の純粋な心とまわりの打算や嫌悪や悪知恵をいだくこころはおなじ人間であるはずだ。

(劇評)
芝居は物語を進めていくと同時に、その役割を演じているものたちから生活や社会状況がみえてくる。そして、それがいまの社会のなにを写すのか。その存在をみるものに感じさせるほど、芝居しかできない奥行きができるのだ。彼が特別にみえるのは、彼が極度な身体奇形をもっているからではない。彼をみるまわりのひとの見方、社会の見方がそのような特別なものにしてしまっている。その見方がなぜおこっているのかをみたかった。彼はピュアな存在でも社会はそうはみえていない。そのずれがある。そこが悲しいのだ。なぜ、感じられないのか。彼はどうなったのかというのをみせているが、それはやはりいわゆるわかりやすい感動のレベルではないだろうか。役者が役作りを丁寧にしているので、関係の描き方でもっと、わたしたちに訴えかけてくるものになったように思う。
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by spacedrama | 2009-09-06 21:40 | s×d2009 | Comments(1)
大変お世話になりました。
baghdadcafe泉です。
劇評をしたいと思います。

特攻舞台Baku-団さんは初めて拝見いたしました。お名前はよく伺っていたのと、風のうわさで熱い集団がいるとよく聞き及んでいました。正直、名前の印象からも汗の飛び散る男くさい、まさに「熱い」舞台をされるのだろうなと思っていました。
ところがある意味それは当たりつつ外れていました。

観劇後、僕が思ったことは、その熱さは巧く計算された熱さなのだということでした。

主人公の売れないパンクロッカーは遺産目当てで実家に戻ります。ところが実家がハイツになっている。いやむしろ介護施設になっている。そしてパンクロッカーは介護に従事するようになり、そこで出会ういろいろな人たちとのふれあいによって自分を見つけ出す。と言ったあらましです。
僕の浅はかな固定観念ではもっと勢い丸出しの作風なのかなと思っていたのですが、思っていた以上に緻密な構成で、情報の提示も丁寧で、さらに社会派でした。驚きました。いろいろな部分で巧いなあ、と。しっかりっしている、と。

こういった介護問題を扱う際には、正確な知識と各方面への配慮が必要となることと思います。たまに、題材を扱っただけみたいなものを見たり聞いたりしますが、この作品はそうではなくどこかリアリティを感じました。もちろんそれが本当にリアルかどうかは僕には想像することしかできませんし、それが全てではないのかもしれませんが、こういった作品でリアリティを感じさせるのは生半可なことではないと思います。そこがすばらしいと思いました。こういうチョイスのバランス感覚が巧いと思うのです。それは随所に見られます。

主人公がパンクロッカーになったきっかけとなる女性との再会をその介護ハイツで果たすのですが、その彼女が後ほど、若年性の認知症だと分かる展開などは、まさにドラマティックとリアリティの微妙なところを巧くついており秀逸だと思いました。

ただ、この彼女の話が物語的にとても感情に訴えてきたため、主人公のパンクロッカーが少し薄れてしまったような感もありました。
贅沢を言わせていただくならば、そこで主人公とのバランスがとれていれば、今よりもっとすばらしいお話になっていたかもしれません。バランス感覚が今まで巧く処理されていたからこそ、欲を持ってしまうのかもしれませんが。

しかし総じて、よくできていることには変わりなく、安心して一人のお客さんとしてストレスなく楽しませていただきました。これは簡単にはできないことだと思います。

あと、最後に紙芝居をおまけでやっていたのですが、こちらは前評判どおりのいい意味でバカで熱いものでした。おまけと言いつつ1話から始まって50話もやってました。ああ、なんてこの人たちはバカなんだ。それを見ながら唇を噛み拳をグッとにぎりしめました。まじめもできてバカもできるなんてずるい。うらやましい。
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by spacedrama | 2009-09-06 14:01 | s×d2009 | Comments(0)