「カミシメルヲミル」
2011年 08月 08日
Mayの金哲義です。
コレクトエリットさんの「カミシメル」を観ました。
言葉というものは出尽くされていて、それを組み替えるセンスと、
そして表現のバリエーションで、台詞を持つ舞台劇は個性を持つ。
あらゆる作品を目にする、耳に聴く等の場合、発信側を知る事は多い。
一つの作品を観て作家を知り、次にその作家の作品を観てさらにその作家を知り…を繰り返す。
「君を愛してる」という言葉は同じでも、とある作家ならばそれはストレートなものであり、
とある作家ならば悲哀であり、とある作家ならば皮肉となったり。
それは時には邪魔ともなり、そして時には深みともなる。作品による。
前の二作品と違って、カミシメルの発信者であるべかお氏とは何度か言葉を交わす機会があったため、
今回の作品は真っ白から入る事は不可能だった。
少しなりとも作家を知ったので、さて、どんな作品を発信するのだ?という姿勢が入る。
それが正攻法なのか邪道なのかは結局は解らない。
今回の作品を観る前から、やたらと「寝る」という単語を耳にする。
客席に座ると偶然にも作家が隣に座る。
「しっかり観させて頂きます」と挨拶すると「いえいえ、気軽に寝て下さい」という返事が帰ってくる。
「じゃあ、今から寝ます」等と冗談混じりの会話をしたが、
いよいよもって「寝る」がキーワードのように思えて仕方がない。
結果、僕は寝なかった。
主人公(木原勝利さん)が物語序盤、舞台の中央にて「夢から覚めた」と発する。
それが寝なかった大きな要因だった。
それが演出なのか偶然なのか解らないが、
この会場特有の一番響くポジションで、その言葉はエコーした。
それは作品の外が夢で、今この作品では作品内が夢の覚め場所なのだと感じた響きだった。
作品は街角のイルミネーションを見るかの如く並行なパターンが繰り返されていて、
言葉も一つ一つの灯りのように、一つ、また一つ、と点滅していく。
出演者のほぼ全員が引力から離れていて、たった一人の男のみがしっかり地に足をつけて、
発する台詞のパターンも違う。
*この作品の僕個人の残念だったところは、無重力を演じる演者達が、
主人公以外は重力を無視する動きが余計に重みとなり、漂いを感じれなかった事だ。
それはもしかしたら一番大きい事なのかも知れない。
波に乗れたのか、僕はボンヤリと作品を漂えた。
客席は明るく三面が見て取れ、見るとポツリポツリと眠っている人があちらこちら。
おそらくこの作家は、自分が「観たいもの」を創っている。
その観たいものは、客席も含まれている。
そして、寝ている観客も作家の「観たいもの」に例外なく組み込まれている。
やたらと耳にした「寝る」は、やはり作品のキーワードだったのだ。
そして開演前に作家に言われた通り「寝る」ことが正解だったのだ。
しかし、それは作家に正解であって「観る」側には正解ではない。
だから会場内にハレーションが起こっている。
正解を知るには寝ないといけないが、寝ると正解を知れない。
つまり、この発信者は「嫌な奴」である。
そして「嫌な奴」が発信する作品は僕は好きだ。
それが氾濫してはいけないけど。
コレクトエリットさんの「カミシメル」を観ました。
言葉というものは出尽くされていて、それを組み替えるセンスと、
そして表現のバリエーションで、台詞を持つ舞台劇は個性を持つ。
あらゆる作品を目にする、耳に聴く等の場合、発信側を知る事は多い。
一つの作品を観て作家を知り、次にその作家の作品を観てさらにその作家を知り…を繰り返す。
「君を愛してる」という言葉は同じでも、とある作家ならばそれはストレートなものであり、
とある作家ならば悲哀であり、とある作家ならば皮肉となったり。
それは時には邪魔ともなり、そして時には深みともなる。作品による。
前の二作品と違って、カミシメルの発信者であるべかお氏とは何度か言葉を交わす機会があったため、
今回の作品は真っ白から入る事は不可能だった。
少しなりとも作家を知ったので、さて、どんな作品を発信するのだ?という姿勢が入る。
それが正攻法なのか邪道なのかは結局は解らない。
今回の作品を観る前から、やたらと「寝る」という単語を耳にする。
客席に座ると偶然にも作家が隣に座る。
「しっかり観させて頂きます」と挨拶すると「いえいえ、気軽に寝て下さい」という返事が帰ってくる。
「じゃあ、今から寝ます」等と冗談混じりの会話をしたが、
いよいよもって「寝る」がキーワードのように思えて仕方がない。
結果、僕は寝なかった。
主人公(木原勝利さん)が物語序盤、舞台の中央にて「夢から覚めた」と発する。
それが寝なかった大きな要因だった。
それが演出なのか偶然なのか解らないが、
この会場特有の一番響くポジションで、その言葉はエコーした。
それは作品の外が夢で、今この作品では作品内が夢の覚め場所なのだと感じた響きだった。
作品は街角のイルミネーションを見るかの如く並行なパターンが繰り返されていて、
言葉も一つ一つの灯りのように、一つ、また一つ、と点滅していく。
出演者のほぼ全員が引力から離れていて、たった一人の男のみがしっかり地に足をつけて、
発する台詞のパターンも違う。
*この作品の僕個人の残念だったところは、無重力を演じる演者達が、
主人公以外は重力を無視する動きが余計に重みとなり、漂いを感じれなかった事だ。
それはもしかしたら一番大きい事なのかも知れない。
波に乗れたのか、僕はボンヤリと作品を漂えた。
客席は明るく三面が見て取れ、見るとポツリポツリと眠っている人があちらこちら。
おそらくこの作家は、自分が「観たいもの」を創っている。
その観たいものは、客席も含まれている。
そして、寝ている観客も作家の「観たいもの」に例外なく組み込まれている。
やたらと耳にした「寝る」は、やはり作品のキーワードだったのだ。
そして開演前に作家に言われた通り「寝る」ことが正解だったのだ。
しかし、それは作家に正解であって「観る」側には正解ではない。
だから会場内にハレーションが起こっている。
正解を知るには寝ないといけないが、寝ると正解を知れない。
つまり、この発信者は「嫌な奴」である。
そして「嫌な奴」が発信する作品は僕は好きだ。
それが氾濫してはいけないけど。
by spacedrama
| 2011-08-08 15:11
| s×d2011