突劇金魚「幼虫主人の庭」を観ました。
2010年 07月 15日
突劇金魚「幼虫主人の庭」を観ました。
一匹の幼虫が、ある夫婦の住む家の庭に住んでおり自分を主人だと思っている。
そして、その幼虫は人間たちと普通に会話を始める・・・。
更に、犬は喋るし、妹たちは蛹になってしまうし・・・。
へ?と思ってしまうようなおかしな世界。
でも観客は、きっと冒頭から物語に惹きこまれていきます。
この独創的な不思議な世界にするすると観客を連れて行ってくれるのにはわけがあります。
まずひとつめは、
作品のテーマが、普遍的で決して小難しいものではないこと。誰もが感じる日常の中からふんわり伝わってくるもの。だったからなのかなと。
夫婦の中に起こる気持ちのスレ違いや、憤懣、でも一緒にいることで、会話して、喧嘩して、歩み寄って、前より少しわかってくる相手のこと。他人と一緒にいるのだということを思い知る「夫婦」であることへの想い。それが、人としての「成長」であるということ。
そして、この「成長」するということが、とても分かりやすく描かれています。
幼虫がご飯を食べたくない!というセリフや、回想シーンの子供である妹たちが人と会話なんかしたくない!というセリフが散りばめられ、最後には、でもね、私たちは、食べなきゃ・・・会話しなきゃ・・・となっていく下り。
とてもストレートに響いてきます。
そう、この夫婦はいつも食べていました。会話をしていました。
もうひとつは、
登場人物、ほんと全員がなんとも愛すべきキャラクターとして描かれていることかなと思いました。幼虫主人を筆頭に、出てくるヒト、出てくる動物、みんなどっかおかしいのですが、でもそれが、なぜか本当に可愛げがあるというか愛されるべき存在として描かれていました。役者が、作品をよく理解しているのでしょう。
あとは、言うまでもないですが、衣装や舞台美術、挿入で入る犬の唄などが、この世界感をつくるのに存分な効果を果たしていたと思います。
最後に。
奥さんの方の、いつも優しいお兄ちゃんは庭師で、いろんなものをパチンパチンちょん切ってました。私はそこに勝手にちょっと怖さを感じました。
旦那さんの方の、社会人にすらなれないお兄ちゃんは、最後にはみんなを包む「庭」になりました。私はそこに勝手に優しさを感じました。
Micro To Macro 石井テル子
一匹の幼虫が、ある夫婦の住む家の庭に住んでおり自分を主人だと思っている。
そして、その幼虫は人間たちと普通に会話を始める・・・。
更に、犬は喋るし、妹たちは蛹になってしまうし・・・。
へ?と思ってしまうようなおかしな世界。
でも観客は、きっと冒頭から物語に惹きこまれていきます。
この独創的な不思議な世界にするすると観客を連れて行ってくれるのにはわけがあります。
まずひとつめは、
作品のテーマが、普遍的で決して小難しいものではないこと。誰もが感じる日常の中からふんわり伝わってくるもの。だったからなのかなと。
夫婦の中に起こる気持ちのスレ違いや、憤懣、でも一緒にいることで、会話して、喧嘩して、歩み寄って、前より少しわかってくる相手のこと。他人と一緒にいるのだということを思い知る「夫婦」であることへの想い。それが、人としての「成長」であるということ。
そして、この「成長」するということが、とても分かりやすく描かれています。
幼虫がご飯を食べたくない!というセリフや、回想シーンの子供である妹たちが人と会話なんかしたくない!というセリフが散りばめられ、最後には、でもね、私たちは、食べなきゃ・・・会話しなきゃ・・・となっていく下り。
とてもストレートに響いてきます。
そう、この夫婦はいつも食べていました。会話をしていました。
もうひとつは、
登場人物、ほんと全員がなんとも愛すべきキャラクターとして描かれていることかなと思いました。幼虫主人を筆頭に、出てくるヒト、出てくる動物、みんなどっかおかしいのですが、でもそれが、なぜか本当に可愛げがあるというか愛されるべき存在として描かれていました。役者が、作品をよく理解しているのでしょう。
あとは、言うまでもないですが、衣装や舞台美術、挿入で入る犬の唄などが、この世界感をつくるのに存分な効果を果たしていたと思います。
最後に。
奥さんの方の、いつも優しいお兄ちゃんは庭師で、いろんなものをパチンパチンちょん切ってました。私はそこに勝手にちょっと怖さを感じました。
旦那さんの方の、社会人にすらなれないお兄ちゃんは、最後にはみんなを包む「庭」になりました。私はそこに勝手に優しさを感じました。
Micro To Macro 石井テル子
by spacedrama
| 2010-07-15 21:46
| s×d2010