space×drama2016の感想を様々な視点で載せていきます 。300文字以上の感想を各劇団が書いていきます。皆様もコメント欄に是非お書き下さい!


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無名劇団「無名稿 機械」感想(オカモト國ヒコ)

 まず美術がよい。

 センスのいいデザインの垂れ幕がシアトリカル應典院のそこそこの天井の高さをしっかり効果的に見せている。様々な高さに飾られライトアップされたハイヒールやブーツたち。一体この様々な靴がこれからどう意味付けされ100分後の幕切れには一体どんなものに見えているのか。開演前の舞台を眺めつつ非常に期待が高まった。

 結果を言えば、それらは物語上で特に何かに見立てられたり新鮮な意味が与えられることはなかった。残念に思ったが、それは勝手に盛り上がってしまったこっちの落ち度である。

 戯曲と演技について。

 舞台は現代の日本である。なのに、誰一人、現代口語でしゃべらない。

 パンフによればこの作品は横光利一の短編小説『機械』にインスパイアされ書かれたものだそうで、さらに今作のコンセプトは「文学作品×現代社会」というなかなかに格調高いものらしい。そういった雰囲気を出そうとしてか、非常に固い文語的な台詞回しを採用している。

 その固い台詞に若い劇団員たちはかなり苦労したと思われる。正直言って、そこでちゃんと生きて生活している人物に見えたかと言われれば答えはノーだ。演技が下手というよりも、このモロに書き言葉のセリフを自分の生理と結びつけて演じる方法がまだ確立されていないのだと思う。

 結果的に(演出家は意識的だったかも知れない)、登場人物たちは感情移入できない機械人形のような印象となった。
 
 『機械』というタイトルであるのでそのこと自体は趣向として悪くはない。

 しかし、今回の作品に限って言えばその見え方はこの戯曲の持っているテーマを大きくスポイルしていたのではないだろうか。

 次々と観客の前に並べられる児童虐待やいじめや部落差別、職場での嫉妬、スポーツの祭典の裏で進む美化という名の排斥。

 小さなアパートで陰鬱な日常を過ごす貧しい母子と国家規模の華やかな祭典であるオリンピックをつなぐものは、隠蔽された暴力だ。

 人が二人以上集まれば社会だとよく言うが、その社会は知らず知らず弱い者を生け贄にする構造を持ち始める。その自動機械のような構造に組み込まれることによってくすぶった暴力性を開花させることこそ人間という社会性動物の本質なのかも知れない、というような割とスケールの大きなテーマをこの戯曲は表現しようとしているのだと思う。

 もしそれが正しいとするなら、少なくとも何人かの登場人物は、愛すべきとまでは言わなくとも普通に笑ったり泣いたりする血の通った人物としてまずは描いておく必要があった。そして、その守るべき者も目指すべき夢もある彼らがそうとは意図せず自分たちが組み上げてしまった冷酷な暴力機械の構造に操られるままに、非人間的な行為に加担してしまう、あるいは犠牲となる、というやるせないイメージが本来のこの作品の姿だったのではないか。

 勝手な想像だが。

 というのも、客演の男性キャスト二人はしっかりとした演技でこの固い台詞群に見事に血肉を通わせており、彼らが傷つけられ損なわれていく様はちゃんと心に痛く、切実に感じることが出来たのだ。

 もしもこの作品が現代の大阪弁で書かれていたとしたら若い劇団員たちも、もっと自然に生活感や情感をもって演じることが出来たかも知れない。そしてその方が、この戯曲が意図した残酷をより生々しく表現できたのではないだろうか。

 演出について。

 歯車などの古めかしい機械の動きを役者が演じるアンサンブルが何度も繰り返される。なるほどタイトルが『機械』だけに。

 しかし、この作品に本当に必要だったのは原作の時代に合わせた古めかしい機械の表現ではなく、戯曲が意図的に描かなかった現代風俗の補完ではなかったかと思う。現代でもっともありふれた機械であるスマホを登場人物全員が常にいじっていれば(作家は超・嫌がっただろうが)観客はあるスリリングさを持ってこの作品を見ることが出来たと思う。

 冒頭の死体を見つけてのシーン、ト書きに書かれてなくともスマホで動画を撮りながら台本通りに『機械』からの引用された長セリフ「目が覚めると屋敷が死んでいた」をぼそぼそと呟いて物語を始めるとするならば、全体はどんな意味を付加されただろうか。

 児童虐待の母親の行為がすべて片手に持ったスマホでSNSに投稿を続けながらだったとしたらどういう印象になっただろうか。

 友人を生け贄にして虐められる側から虐める側の手先となった主人公がその友人にそのことを強く糾弾されているその間、ずっとLINEでのやり取りを止めなかったらどう見えただろうか。

 座長でもあるらしい演出の島原さんは、文章がとてもうまいのできっと(今は書いてなくともいつかは)戯曲を書く人なのだと思う。だからというわけでもないだろうが、実は中條くんと島原さんは目の付け所がとてもよく似ている。そのために、同じ要素をそれぞれの立場で強調しようとしていて、それが舞台上での不整合、あるいはメリハリの無さを産んでいたように思える。

 今作において、演出家は戯曲のもっている生真面目すぎる硬さを、そんなに肩肘張るなよと柔らかくほぐしてやることに専念すべきだった。その方法は書いた作家が泣きながら怒るくらいもっと大胆でいいし、役者や観客をおちょくるくらいもっとぶっ飛んでいても良かったのではないだろうか。

 影絵のシーンがとてもよかった。
 

オカモト國ヒコ
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by spacedrama | 2016-06-17 13:55 | 無名劇団感想 | Comments(0)