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space×drama2016の感想を様々な視点で載せていきます 。300文字以上の感想を各劇団が書いていきます。皆様もコメント欄に是非お書き下さい!


by spacedrama
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特攻舞台Baku-団「ハイツ・カイゴパンク」(むかわ)

このspace×drama2009の最後の劇団なのに、なかなか書くことができませんでした。みなさま遅れて申し訳ございません。いろいろと考えさせてくれる劇団でした。

観劇日:2009年8月30日(日)PM1:00

(感想)
 日曜日の昼公演。ここしか日程の都合でみられなかった。日曜日の昼公演は混雑するだろうと思っていたのに、意外であった。割りと客席に空席があり、ゆったりとみられた。(私がみた space×drama2009なかで二番手の空席率だった。)
選挙投票日だからだろう。それとも面白くない劇団だからだろうか。意外だった。
お名前も劇団も知っていて、作者の方も名刺交換をさせていただいたこともあったのだが、なかなか行く機会がなく、今回初めての舞台。舞台セットもしっかり美術としてつくられたもので、照明も音響もきちんとある。それなのに。。。
見る前、その客席のあきぐあいに、正直、自分だけが暗転になり、遠くで話しつづける芝居になるのだろうかと思ってしまいました。(目をつぶって、話しだけを聞く状態。まあ、それもひとつの縁)

だが、そういう不安はいっさい裏切られた舞台だった。

芝居はもはやいいとか、わるいとかでは芝居の客が多い少ないには関係ない。長くやっているからとか、もう何回もみたからとか。はやりすたりで変わっているかもしれなし、どれだけ客演がいてその広がりで客がひろがるかとか。芝居をみることがいまをみているおもしろさというよりもただの与えてくれるおもしろさをもとめている客が増えているとすると、芝居はさらに単純なものに成り下がってしまう。そういう所で芝居をしていなく、自分たちがいまどうあるのか、社会のある部分から、切り込んでいきながら、それでも楽しいものにしょうとする。社会派とかいわれているそうですが、私は生活派ではないかと思いました。社会告発や啓蒙などに主点が置かれているのではなく、あくまでも、これはひとつの青年の自分の闘いのドラマに集約されているからだ。

ひとがひとと向き合うこと。これは実はとても大変なことであると思う。そこにコミュニケートできない個々の事情が障壁としてあればあるほど、それは当たり前に難しいことなのだと知る。だから、伝わり会うことができる思いやりが自分ななかから出てくるものでなければ、実は友人、家族、社会は自明のものでは形でしかないものへと変わっていくのだ。でも、私はそこまで他者と関わり続けていくことができるのか。実はそんなに関われないようになっているのではないのか。この芝居の視点と少し違う所から入るが、関わりが強迫管理されているがゆえに、実はもう他人に関わりたくない。いや、関わりたいのに関われない、切り離されている社会精神状況があるように思う。

主人公セキドが敗れたものは昔から抱きつげた青春や恋の想いではなく、また、市井風子が若年性認知症でありながら、自分がなにものかの不安を抱えながら忘れてしまう所での、それでも伝えたいが伝えられないわたしのこえでもない。
ひとに向かうところで、伝えようとしているが、伝えられることに自信が持てない自分や相手そして、社会に敗れたのだ。

この日、衆議院議員選挙の投票日だった。
次の日から、すべては変わろうと動き出した。でも、これからなのだ。
セキドは路上からまた何かを伝えられることをはじめた。そこにみるものはなにをみたか。
すくなくとも日常の、こんな兄ちゃんたちいたらいいなあと思えるものだ。その想いはしっかりと伝わった。

(劇評)
 芝居に社会状況をいれるとき、深刻になろうとする。でも、それは扱う素材への立ち位置なのだ。告発や啓蒙もときには、有効であるが、歴史が示しているように、凄いありがたいものを偉い人がしていただいて、というように庶民は知識としてしか、それらを受けはしない。そして、気づけば、演劇芸術は高みにいってしまい、結局、上から目線になっていく。
 この劇団はそういう立ち方ではなく、芝居のなかを見つめる所で、個人ではどうしようもできないこと。でも、そのなかで、頑張っているひとと同じところから、でも、芝居つくり屋としてのうそは多いにつきながら、そこに、生きている人を描き出すものでつくりあげていた。
 少しだけ、気になったのは、役者がそういう役割の役をやっているのに、それを知っている
専門家という立ち位置で言っているように感じられた。それは、専門で勉強している学生が知識を得たからその世界をしっているのに、似ている。そこには実践があるのだ。たとえ、役者の中に、その専門家がいても、やっているのはその世界の状況説明ではない。そこにあるひとのおもしろさであるのが、芝居屋のやるところであろう。重箱の隅をつつくような気もするが、おおいなるうそから出たまことをする劇団だろうと思うので。これから新しい劇団はどうなるのか。次を期待したいです。


 今回いろいろな大阪の劇団を見させていただいて、とても刺激と思考と苦悩と絶望と期待を抱かせていあただきました。当たり前のことですが、芝居はまだまだ続く。そんな想いでこれからも自分も芝居をつくり、また見ていこうと新たな力を得ました。ありがとうございました。
by spacedrama | 2009-09-23 13:02 | s×d2009