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コトリ会議さんの「桃の花を飾る」を観ました。
Micro To Macro の石井です。

劇評というより感想のようなものになってしまいます・・。

美しい舞台美術。
観る前からいろんな想像をかき立てられます。

桃の花を飾るお話でした。
その桃の花を飾る花瓶が舞台中央奥にひっそり置かれている。

物語は、借金だらけの駄目男の夫と小説家の妻の破綻しかけの夫婦の物語。
と、もうひとつ、その妻の書く小説の中に出てくる登場人物である夫婦の物語。ダブルプロットで進むこの物語をのっけから犬と猫がガイド役とて出てきて、この物語はこんなお話なんだよと分かりやすく説明してくれます。

私も幾つかのプロットで話を進めるような物語を書くので、のっけから全部説明してしまうというオープニングは、はじめから種明かしするようなものなので、えーとは思ったのですが、それはそれでなんて潔いのだろうと思いました。

山本氏の書く物語は台詞が面白いです。目を瞑って台詞だけ聴いていても、その言葉から滲み出るニュアンスと、それが客席に運ばれるテンポの心地さは、今まで観たどの作品と同じく見事だなぁと感じました。可愛くてでもとても可笑しい。時にちょっと毒もある。イテテ・・ってなります。

この物語は夫婦の物語。
借金まみれの夫と小説家の妻が実存の夫婦で、妻が病弱過ぎて、セックスができない夫婦が小説の中の虚構の夫婦。
これは、山本氏の仕掛けなのか、私のとても個人的な感覚なのか、小説の中の虚構の夫婦の方がとてもリアルに感じ、実存の夫婦の方にあまり現実味を感じませんでした。なんででしょう。

借金取りが異常に親切過ぎて自分の臓器まで提供してしまうとことか、面白過ぎたんですが、ブッ飛んでるところとか、架空の夫婦の方の、夫のセックスだけの相手が妻の妹だったりするところの生々しさだったりとかでしょうか。この二つの世界は最後には、ひとつになって、ぐちゃりと混じり合ってひとつの世界になっていきますが、それも現実と虚構の隙間を薄ら笑っている山本氏の全て作戦どおりなのかな・・と感じたりもしました。


花瓶は割られ、夫婦の大切な家は失くなってしまう。でも、最後に物語の中の夫婦に子供が宿ります。そして、桃の花は飾られる。どちらの夫婦も、いやきっとそれは現実とか虚構とか関係なく、晒し合って、傷つけあって、でもお互いを想い対峙した夫婦というものが、きっと幸せになると感じさせるラストシーンの群唱。実は私には、ここらへんではもう、なにがなんやら分からんくらいになっていたのですが、そこには、なんだか新しい命と、そこから始まる幸福感みたいなのがどんどん広がっていて、それだけで、山本氏の放つ世界観に今回もどっぷりと魅せらたなぁと感じたのでした。
# by spacedrama | 2011-09-19 03:39 | コトリ会議劇評 | Comments(0)
Micro To Macro様より依頼を頂き劇評を書かせていただきます、ステージタイガーの虎本と申します。
コトリ会議様の「桃の花を飾る」を観劇させていただきました。

この作品は、借金に追われながら生活する夫婦と、その妻が執筆する、妻の体調からSEXが出来ない夫婦の世界を行き来する物語です。
それを繋げるのが、冒頭からメタ的に登場する犬と猫。そして、桃の花と、飾る花瓶。

既に多くの方が指摘される通り、山本氏の紡ぎだすコトバは耳障りがよく、気持ちよいリズムと共に、いつの間にかその不条理な世界に浸らせてしまうのです。
次々と俳優の口から溢れ出すコトバが本当に心地よく、実社会の夫婦が喧嘩をするシーンなど、喧嘩とは思えぬコトバの羅列ぶりに、拍手が起きました。

ゆえにラスト10分程のドタバタとした転換の嵐と若干のアクションシーン、郡唱に対し違和感を感じました。
今までの会話での面白さを全て捨てたような音響照明効果は何故なのだろう。
アンバランスなのです。
そのアンバランスさ、唐突さすら笑いなのかと。
しかして笑いだろうが何だろうが、それを突き抜ける程の力がまだない。
残念ながら、この座組の俳優達にはアクションや早い展開で魅せるだけの身体能力が伴っていないように感じました。
個々の癖や個性といったものはよく引き出せていたように感じましたがそれぞれ集団での動きや理解に乏しい印象があります。
100人の観客の前で身体を制止させ、見栄を切る能力に欠けています。
演出がそういった手法を軽視していないのであれば、もっとその演出に向いた俳優をチョイスするか、確固たる演技手法を統一すべきだと思います。

身体という点では、濱本さんとピンク地底人2号さんの夫婦は立ち方、歩き方まで雰囲気が相似しており、いい組み合わせだと思いました。

ステージタイガー
虎本剛
# by spacedrama | 2011-09-15 18:08 | コトリ会議劇評 | Comments(0)
コレクトエリット、べかおです。

よろしくお願いします。


役者たちは、けっこう必要以上の声のボリュームで台詞を放ちます。またそれに加えて、普段はなかなか扱わないであろう分量の台詞が与えられてもいる。

これは山本さんが意図的に、役者たちに余裕ある演技をさせないためにそうしているのではないかと思われました。

日常ではそうそう持ち得ないテンションを舞台上に現出させるために、それを狙ってやっているのではないかと。

実際はわかりません。あくまでも印象でしかないです。
というわけで、以下に展開する感想は僕の勝手な妄想にすぎません。

さてさて。

長大な台詞とギリギリまで張り上げる声、を求められた役者たちの目標は至極シンプルになります。台詞をしっかりと覚えること。それを淀みなくフルボリュームで語り尽くすこと。

これは、練習量がモノを言うというか、おそらくそんなに大きくは迷うことなく、本番に向かっていけるでしょう。

しかし、これでは、僕には陸上競技のようにも感じられてしまう。しかも、個々人で金メダルを争っているわけでも世界記録という明確な数字を競っているわけでもないので、演劇においては少々ミスを恐れてしまったり笑いを取れるかどうかへの意識などが先に立ってしまって、本当に問われるべき、緊張感にやや欠けてしまうのではないかと思ってしまうのです。

しかも、しっかりと練習を重ねてこれていれば、本番における全力疾走はただただ気持ちよさや開放感や達成感に、中途半端にたどり着きやすくなってしまう。

これは、なかなか恐ろしいことです。

役者たちが気持ちよくなるために演劇はあるのではないと僕は信じているからです。

実際のコトリ会議の作品がどうだったのか、それは僕には厳密にはわかりません。ただ、そんなことを考えながら観ていたというだけの話です。

語られる台詞の面白さやなんともいえない展開を見せるおはなしは、とても魅力的なだけに、気になったことを、ひとつだけ例にあげて、このブログを終わります。

物語の中の小説世界に出てくる夫婦についてです。

とても愛し合っている夫婦だけれど、妻は身体が弱く、セックスは妻の調子が良い時だけ、ましてや妊娠の可能性がある中出しセックスは決して許されないという葛藤を二人は、それぞれの仕方で抱えている。

ある日、実は病院からNGが出ているにもかかわらず、今日は出来る日よと夫の前で妻がはしゃぎ倒すという切ないシーンがありました。現実を知る夫は、冷たい態度で妻をあしらいます。ここがわからなかったのです。

妻がはしゃぎ倒す、痛々しさも伴った姿を、呆然と見つめる夫の視線が本当に無機質なものであったことは、そのあと、病院からの真実を知っていると告白する夫の台詞で解消されたような気になります。

しかし、またそのあと、妻のいないところで夫が、中出しセックスが許されない苦しさという言葉を借りて、妻への愛を吐露したとき、僕にはどうもその愛とやらがただの台詞による説明にすぎない気がして、違和感が残りました。

それでは、ラスト、奇跡的に妊娠した妻に「おめでとう」と声をかける夫の言葉は他人事の祝福にすぎなくなってしまうのではないか、と思うのです。

実際はわかりません。
ただ僕は、そのようなことを考えながら、客席に座っていました。
# by spacedrama | 2011-09-12 23:57 | コトリ会議劇評 | Comments(0)
コレクトエリット、べかおです。

よろしくお願いします。

Mayを観るのは、3回目でした。今回、僕は今までMayの作劇を誤解していたのかもしれないな、と思ったのです。劇評なんてものより、そのことについて、語りたいと思いました。

前置きが続いてしまいますが、完成度が高いとか、よどみない安定感とか、そんなことより、金さんはクレバー、というか、いや、金さんの知性とか品性みたいなものが作品を貫いていることが何より重要なのだと思います。

Mayの作品には「語るべきことがある」というような、イメージのようなものが、そもそも観客が誤解してしまう要因なのでしょうか。在日コリアンが在日コリアンの話をする、ということが取り立てて特別なことでもないはずだし、もっと観るべきものがあるだろう、というか。それだったら、ドキュメントやドキュメンタリーでいいわけだし。

いや、そんなことがいいたいのではないのです。

僕はやはり、劇場にわざわざ足を運ぶという行為が、何になるのか、そのことこそが問われるべきじゃないか、と思っているのです。

これをいいだすと、しかし、キリがなくなります。

観客の求めるものが重要とは考えていません。それはビジネスの話であって、語弊を恐れずにいえば、芸術の可能性とはあまり関係がないはずだ、とおもうからです。

いや、やっぱり、そんなことがいいたいのではないのです。

今回、金さん自身による、前説がありました。観客からのレスポンスを直接求めるべく、金さんは全身全霊で劇場にいるように感じられました。そして、劇場は独特の一体感に包まれました。この、乗れようが乗れまいが、劇場を包む一体感は、直接に足を運び入れないかぎり味わえないものです。

そして、そうやって始まる、底辺に流れるものは生々しくも、寓話のようにも僕には感じられるのですが、ある普遍性をもった恋物語が、趣向を凝らした語り口で語られ、その語りに目を凝らし耳を澄ます観客たちを、最後は労うように演奏があり一緒に舞台にも上げて踊り、何かを祝福するように幕は降りていきます。

この時間。

この時間が劇場で待っているということが何よりの魅力なのではないかと思いました。

個人的には、朝鮮訛り(?)の日本語がたまらなく心地よかったです。何なんでしょう、ある種のストレスでもあるはずですが、なんともいえない快楽を味わっていました。そういった細かいディテールを裏打つ技術の高さには、劇団が積み上げてきた時間が確かにあるはずで、そのことに、なにか、人間として勇気をもらい、僕は劇場をあとにしました。
# by spacedrama | 2011-09-11 23:42 | May劇評 | Comments(0)
観劇させていただきました。
勝山修平です。
宜しくお願い致します。

★☆★

開演から、犬と猫がオーソドックスに語尾に
「ワン」と「ニャン」をつけながら
舞台を進行していきました。
ひとつは夫婦の話。
借金で悩んでいるような
借金をきっかけにした「自分」と「相手」に
悩んでいるような
要は目先のことに悩んでいる夫婦の話。
今の自分の感情にどこまでも正直な夫婦の話。

もうひとつの話は、その婦人が書いている
小説の中の話。
小説の中では、
重い病気のせいで夫と満足にSEXできない妻と
妻とSEXできないので妻の妹とSEXしてる夫と
姉の夫とSEXしてる妹が登場します。

物語は犬と猫によって進行しますが
今思えば進行ではなく
お客に、我々に向かっての「報告」だったと
思っています。

何の報告だったのか?

犬と猫は進行しながら
「見るべきことはわたしらじゃなくて人間だからね」と
劇中何度か口にします。
セリフはだいぶちがうけどそういったニュアンスのことを
何度か口にします。

何故?
犬と猫は人間の物語の進行に於いて「だけ」なら
必ずとも必要ではないのです。
そして犬と猫はいつも明るく
何なら歌ったりもして
自己主張をいいだけしてから
「見るべきことは人間だ」と言うのです。

そして犬と猫は人間の物語に干渉しています。
現実の僕らがそうであるように借金苦の夫婦は犬を飼っていて
小説の中では病弱の妻が召喚獣として犬と猫を召喚します。

見るべきことは人間なのに。犬と猫は。

だから自然と強制的に約1時間50分
犬と猫の目を通して
始終老後のプランを立てるなんていうことを
考えもしないであろう登場人物たちの
浅ましさや愚かさや愛しさを観ました。

それはきっと今まで山本正典が描いてきた
おかしく必死で響きがよろしい日本語を使う世界を
客席に届けるフィルターとして
「今」必要なファクターだったのではないか。

コトリ会議の世界は自由に圧迫されていて
どうしようもなく協調性が欠けています。
生々しいことがきちんと生々しく描かれないところに
生々しさを感じます。
子供が描いた動物の死体を見たような。
かわいいヌイグルミの腹が割かれて綿が出ているような。
却って生々しいのです。

さてそれをどこまで山本正典が意識的に描いているかはわかりませんが、
少しづつ彼は無意識に感じとってもらいたいものを意識的に描いている
ように思います。

それはとてもすごいこと。
でも、コトリ初期に見られた、表現しがたい稚拙な表現から来る
必死さとの軋みから出た「ゆがみ」はもう見れないのだろうか。
だってもう彼は自分の何が良く何が足りていないのかを
常考えているであろう作家なのだから。すごい。
だから、でも、少し寂しくも思います。
「SEX」がなんであるか理解せずに「お医者さんごっこ」を
していた子供時代にはもう戻れないように。

でもいつか、それすら意識的に表現できるようになるのだろうか。
なるのだろうと確信しています。

だから僕はしつこく求め、花瓶に桃の花を飾ってでも催促してやろうと
思います。割られるんでしょうけど。
# by spacedrama | 2011-09-11 10:00 | コトリ会議劇評 | Comments(0)
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